憲法53条に基づく召集要求の問題には、
安倍内閣に特有の問題もあります。前述の説明は、あくまで一般論です。政治制度をめぐる議論の難しさは、一般論と個別論を分けにくいことにありますが、やはり整理して議論しなければなりません。
安倍内閣の一貫した姿勢の一つに、憲法の軽視があります。憲法9条の政府解釈において、一貫して否定され続けた集団的自衛権の行使に踏み込んだことは、その代表例です。憲法改正の発議権が、国会にあって内閣にないにもかかわらず、内閣の長として改正発議の必要性を繰り返し促してきたことも同様です。最近では、
補正予算の3分の1を占める大規模な予備費を計上したことも、憲法軽視の姿勢といえます。
臨時国会の召集拒否には、こうした安倍内閣の憲法軽視姿勢が透けて見えます。内閣・与党には「審議する議案がないので召集する必要がない」との意見があるようですが、これは
国会の行政監視機能を無視する考え方です。国会の行政監視機能は、議案審議機能と同等です。
また、
自民党国対委員長が召集拒否の回答を要求議員に示したことも、憲法を軽視する問題です。なぜならば、召集要求は衆議院議長から内閣に対してなされたものだからです。当然ながら、その回答は内閣から衆議院議長に対してなされなければなりません。官房長官が記者会見で何を言おうと、与党の国対委員長が野党の国対委員長に何を伝えようと、
内閣としては何もリアクションしていないことになります。
少なくとも、安倍内閣が憲法尊重の姿勢を示すならば、
安倍首相が大島理森衆議院議長と面会し、何らかの「回答」をすべきです。安倍首相が、どうしても国会を召集したくないならば、その「回答」を「前向きに検討します」としてもいいでしょう。大切なのは、
内閣の長として衆議院の長に対し、ケジメをつけることです。
一方、
現在の野党は、憲法53条について濫用と言われないよう、抑制的に運用しています。今回の要求は2017年以来で、毎年の定例行事のように要求しているわけではありません。与党との一定のやり取りを経て、それでも必要と考えられる場合に限っているわけです。野党による憲法尊重のこうした姿勢は「弱腰」と批判されやすいのですが、先例を重視する国会運営では、極めて重要なことです。
憲法53条の規定は、
少数意見を無視できるという点で、議会制民主主義の観点から問題ある一方、同じ観点で積極的に評価もできます。これが、日本国憲法の奥深い点です。一見すると反民主的な規定であっても、解釈と運用によっては、民主主義を発展させる規定にもなるのです。
この規定を民主主義的に解釈すれば、
少数者の要求を無視して「行政監視から逃れようとする内閣に対しては有権者が審判を下すべし」となります。臨時国会の召集要求を無視する内閣が存在することを想定していない規定ともいえます。裏を返せば、憲法を軽視する内閣は有権者によって早晩倒されることを想定しているわけです。また、
憲法は有権者をそれだけ信頼しているともいえます。
言い換えれば、
内閣による憲法53条の召集要求の無視について、国政選挙の一大争点とすることを憲法が求めていることになります。憲法の抜け穴を悪用してまで、行政監視を嫌がる内閣は、
存在そのものが、選挙の争点なのです。
つまり、憲法53条の召集要求の規定に、期日が設けられていない理由を積極的に解釈すれば、それを
守らない内閣に対し、有権者の主導による政権交代を求めていることになります。
要は、
憲法を活かすも殺すも、民主主義を発展させるも衰退させるも、有権者次第です。それが、憲法の真髄ともいえます。だからこそ、有権者の「
不断の努力」が必要なのです。
<文/田中信一郎>