武漢から真っ先に帰国したのは、感染リスクの低い企業トップたちだった
武漢天河国際空港
新型コロナウイルスの知られざるエピソードから話を始めよう。今年1月、中国・武漢市で感染が拡大し、中国政府は武漢市を封鎖した。内陸の一大都市である武漢には多くの日本企業が進出していて、大勢の日本人が取り残された。そこで日本政府は邦人救出のためチャーター便を武漢に派遣し、1月29日、第1便で206人が帰国した。ここまではよく知られている事実だ。
帰国者は、新型コロナに感染していないか確認する必要がある。そこで全員、千葉県内の宿泊施設に隔離され、感染症の専門医の診察を受けることになった。問診ではまず「武漢で海鮮市場に行きましたか?」と尋ねる。当時、そこが感染源と見られていたからだ(今は異説あり)。
ところが彼らの多くは一様に「市場? そんなとこ行ったことありませんよ」と首を振る。問診を重ねるうちに医師たちにわかってきた。
第1便で帰国してきた日本人は、進出企業の支店長・支社長や現地法人の社長など、大企業のトップクラスの人物が多かった。彼らは武漢のホテル住まいで、ホテルと現地の支店や工場の間を運転手つきの車で往復する毎日だから、現地の人と接触する機会は極めて限られ、感染リスクも低いということだ。
中には「自分は武漢で息はしたが、地面を歩いたことはない」と自慢げに語った人物もいたという。「それでよく商売になるなあ」とあきれる。ある感染症の専門医は嘆きながら語った。
「ひどい話だよ。支店長クラスがまず逃げてくるというのは、戦争が起きると大将が真っ先に逃げるというのと同じ。関東軍と同じだよ」
もちろん、みんながみんなそうだったわけではないだろう。チャーター便を飛ばした全日空の支店長は、すべてのチャーター便を見送って最後の便で帰国したという。半月あまりの間に約800人が帰国している。
それでも専門医から見れば、感染リスクの低い企業トップが部下を残して真っ先に帰国することに疑問を抱かずにはいられなかっただろう。それが「関東軍と同じ」という発言になった。
私の祖父母と母(戦時中、朝鮮ケソン郊外で撮影)
ここに1枚の古い写真がある。両脇の夫婦は私の祖父母、真ん中の幼児は母だ。1940年代前半に戦争中の朝鮮、今のケソン郊外で撮られた。
祖父は宮崎県の農村の大地主の家に生まれたが、次男坊だったから財産は何ももらえない。そこで当時あこがれの「大陸雄飛」を夢見た。「満州に渡って一旗揚げよう!」という夢を、戦前、多くの日本の若者が思い描いた。
祖父は当時日本の植民地だった朝鮮に渡ったが、そこから満州へと進まずに朝鮮にとどまって小学校(のちに国民学校)の教師となった。
祖母は長野県の生まれで松本女子師範学校(今の信州大学教育学部)を卒業し小学校の教師となったが、「朝鮮の女子に教育を」という政府の呼びかけに応えて朝鮮に渡った。そこで祖父と出会って結婚し、母が生まれたのが1941年(昭和16年)のこと。日米開戦の年だ。だから冒頭の写真は戦時中に朝鮮で撮ったものとわかる。
祖父母は朝鮮で日本語を教えていた。つまり皇民化教育(日本が植民地などで行った同化教育)の先兵だった。だが祖父母にその自覚はなかっただろう。当時の日本人のごく普通の感覚として、国策に沿って教育にあたっていたと思う。
祖母は地元の女性にキムチの漬け方を教わり、戦後帰国してからも本格的なキムチを漬け続けた。だから我が家にはいつも祖母のキムチがあった。自分で漬けるだけではなく、周辺の家庭の主婦に漬け方を伝授していた。
皇民化教育の先兵だった祖母が、戦後、朝鮮のキムチの漬け方を日本で伝授したというのも感慨深い。もっとも祖母はキムチとは呼ばず、常に「朝鮮漬け」と呼んでいた。だから小学生のころ、私はこの食べ物をキムチと呼ぶとは知らなかった。
祖母は朝鮮半島の地名も日本風に呼んだ。住んでいたケソン(開城)は「かいじょう」、ピョンヤン(平壌)は「へいじょう」、ソウルは「けいじょう(京城)」、プサン(釜山)は「ふざん」。テジョン(大田)を「だいでん」と呼んだのは意外だった。「おおた」じゃないんだ……植民地時代の朝鮮の地名を、日本人は漢字の音読みで呼んだ。