関東軍の幹部は日本に逃げ帰り、植民地支配の先兵は国に見捨てられた
そして迎えた1945年(昭和20年)8月15日。近所の神社が焼き討ちされたのを見て祖父は「敗戦」を実感したという。神社は朝鮮の人たちにとって、植民地支配と日本文化の押しつけの象徴だったろう。
祖父母が住んでいたケソンは、朝鮮半島を南北に分ける38度線の北側にあるから、ソ連軍が進駐してくる。身の危険を感じた祖父母は、国から助けのないまま、自力で南への脱出を試みた。
祖母は男装した。幸いケソンは38度線に近い。38度線を越え、半島を南へと進んで、プサンから漁船に乗って山口県萩市の港へ。そこから祖父の故郷、宮崎県児湯郡三財村(今の西都市)へとたどり着いた。祖母は祖父の死後も今年1月に106歳で亡くなるまで西都に暮らし続けた。
祖父が芋焼酎に酔いながらしみじみ語ったことがある。
「あの時、朝鮮にとどまって、満州に行かんでよかった……行ったら、生きて帰ってこられなかった」
そうだろう。当時、日本の支配下にあった満州(今の中国東北部)には、国の呼びかけに応じて大勢の開拓民が渡っていた。彼らは現地の人たちにすれば土地を奪った支配者だが、私の祖父母と同じようにそういう自覚がないまま国策に沿って行動していただけだろう。いざとなれば無敵の関東軍が守ってくれると信じて。
関東軍とは当時の満州に駐留していた日本軍のこと。もともと日露戦後に満州南端の関東州に駐留したからこの名が付いた。満州事変であっという間に満州全土を占領し、日本人から「無敵の精鋭関東軍」と信じられていた。
ところが終戦間際のソ連軍の参戦。怒濤のごとく国境を越えて満州に進んでくるソ連軍を迎え撃つはずの精鋭関東軍はどこにもなかった。一部部隊が戦闘したが、「精鋭」と呼ばれる部隊は長引く戦争でとっくに南方の激戦地へと送り出されていた。
国策で満州に渡った開拓民を守る者はなく、彼らはあるいは集団自決し、あるいは逃避行の中でやむなく地元中国人の家庭に幼い子どもを託さざるを得なかった。こうして中国残留孤児が生まれた。もしも祖父母が満州に渡っていたら、母は残留孤児となり、私が生まれることはなかっただろう。
では関東軍の幹部はどうしたのか? いち早く事態を察知し、真っ先に飛行機で日本に逃げ去ったと言われる。これが冒頭の医師の「関東軍と同じ」というセリフにつながる。偉い奴からまず逃げる。残された庶民はさんざんな目にあう。
赤木俊夫さんの遺した手記には「最後は下部がしっぽを切られる。何て世の中だ」
俊夫さんが書き遺した手記(一部)
さて、森友改ざんである。森友学園に国有地を8億円もの巨額値引きをして売り払った。ことが露見し国会で問題となるや、取り引きの経緯を記した決裁文書を後から書き換えた。
安倍首相の妻、森友学園の小学校の名誉校長に就任していた安倍昭恵さんの名前は5か所すべてが消された。これが「森友改ざん」だ。森友とは言うが、森友学園や籠池前理事長夫妻は関係ない。財務省と近畿財務局内部で行われた。
現場で実際に改ざんをさせられたのは、近畿財務局の上席国有財産管理官だった赤木俊夫さん。自身は土地取引には何の関係もないのに、たまたまことが露見した時に担当部署にいたばかりに、決裁文書という公文書の書き換え=改ざんをさせられた。こんなことはすべきではないと反対したのに、上司に無理強いされた。
国民のために働く公務員の仕事に誇りを持っていた赤木俊夫さんは、反対したとはいえ、結果として不正な改ざんを行ったことに悩み苦しんだ。職場を異動させてほしいと希望したがかなえられず、逆に改ざんをさせた上司の池田靖氏のほうが異動していった。自分は職場から見放されたのではないか? 大阪地検特捜部の捜査が進む中、現場の自分だけの責任にされるのではないかとおびえた。
2018年(平成30年)3月2日、朝日新聞が公文書改ざんの疑いを初めて報じた。それでも財務省は何の反応も示さない。「やはり自分だけのせいにされるんだ……」と追い詰められた赤木俊夫さんは、5日後、自宅で命を絶った。「これが財務官僚王国。最後は下部がしっぽを切られる。何て世の中だ」という悲痛な言葉を書き遺して。