エリート医師が染まった「命の選別」イデオロギー。その背景にある、我々が超克すべき思想

有能/無能世界観を支える新自由主義

 有能/無能二元論の内面化は、新自由主義イデオロギーが通俗道徳化するにつれて強化されてきた。この通俗道徳のもとでは、人間は自由であり、自分の能力次第で何でもできるとされ、自己決定と自己責任のもとで、個人の市場価値をひたすら高めることを称揚される。  個人の自由の追求は、元々は左派が要求してきたテーマでもあった。だが、前近代的な制度や不自由を押し付ける権威の打破の先にあるのが新自由主義であった。文芸評論家の絓秀実は、1968年革命の帰結が新自由主義改革だとしている。たとえば当時の学生は大学解体を訴えたが、まさに国立大学の独法化によって、大学は解体されたのである。  我々は小学生のころから自由に個性を伸ばせと教えられる。21世紀の教育では、保守的な教師でさえ、個性などいらぬと言うわけにはいけない。だがもちろんそれを真に受けて、児童生徒は本当に自由に振る舞ってはいけない。それはあくまでも市場価値がある個性のことであり、最終的に自己啓発セミナーまがいのイニシエーションが求められる就職活動を経て、完成する個性のことなのだ。  そうやって、自分自身の能力を特別な商品として売りつけることを当然のごとく規範化して「社会人」となっていく人々に、階級意識は育たない。「給料をあげさせるためにデモする暇があったら自己研鑽して自分の商品価値を高めよ」と言われてしまうのだ。  元々日本は、実態がどうであったかにせよ、中産階級意識の高い国であった。だが「幸福な時代」が終わり、新自由主義経済の浸透で格差が急速に拡大していく中、労働者意識が再び勃興することもなく、新自由主義的個人だけが宙吊りのまま取り残されている。  階級など存在しない、あらゆる個人は平等である。ただ勝者と敗者がいるだけである。そして勝者は努力した者のことであり、敗者は怠けた者である。したがって格差とは自己責任なのだ。このような価値観を内面化した者に、いかなる連帯が可能であろうか。自分が貧困なのは自分が無能であり価値がないからなのだから、団結して社会のほうを変えようとするのは道徳的悪なのだ。自分が弱者だと認めることは自分の無能を認めることになり、それならば自分にはまだ「チャンス」がある者として、誰の助けを借りないという選択を選ぶ方がまだましだ、となる。

テクノクラートとしての階級意識

 このような状況下で、持つことができる唯一可能な階級意識はテクノクラートである。いまや、あらゆる市民は医者であれ教師であれエンジニアであれコンビニ店員であれ、個人は何らかの「専門家」でなければならず(その職業がいわゆる専門性になじまない場合でさえ)、社会に対してはその専門性を通してのみ関わりあう。むしろ、そのような立場以外からの発言は無価値とされるのだ。すでに丸山真男が「タコツボ型」「実感信仰」などの概念によって論じた日本社会の問題が、また再びアクチュアリティを伴って現れてくるのだ。  たとえば、環境問題への取り組みを企業に要請する市民はバカにされる一方、「そうすることができない業界の事情」を語る、企業の中の人に共感が集まる。グレタ・トゥーンベリがいくら世界の一流の環境学者や各国の政策担当者と意見を交換しようと、彼女は「素人環境活動家」として遇され、石油業界の中の人と称する匿名アカウントが持ち上げられるのが日本のSNSなのである。  こうして、カント的な意味の公共性はなくなる。社会問題を解決するための、市民間の討議可能性も消失する。残るのは、社会問題をテクノロジーによって解決しようとする、ナイーブな(それだけに危険な)技術信仰である。  テクノクラートは民主主義を好まない。ナチス・ドイツや旧共産圏では、たくさんの技術官僚たちが積極的に体制へと参画した。権力のお眼鏡にさえかなえば、民主的決定プロセスや人権への配慮といった煩わしい事柄に忙殺されることなく、やりたいことができると信じたからだ。  公共的思考など必要ない。狭い範囲の合理性や効率を追求していけば世の中はよくなっていく。そしてその合理性や効率を妨害する無能な上司や同僚や顧客への不満こそが、日本の文字メインのSNSで特に有名でもない男性職業人が共感を集める理由だろう。
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テクノクラート意識とマチズモ
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