ミニシアターにはさて、新作の日本映画、また日本未公開の、大手の配給に乗りにくい海外作品をロードショー上映する映画館もあれば、さまざまな往年の名作を紹介する、いわゆる「名画座」も多い。渋谷のキネハウス4階にある、シネマヴェーラ渋谷もそのひとつだ。3階には同じく映画館のユーロスペース、2階にはライブハウスのユーロライブ、地下1階には多くの脚本家や映画監督を輩出した映画美学校が存在する。都内の「映画好き」を自称する人の中でキネハウスを訪れたことがないという人がいたら、その人はモグリと言っていいだろう(こうした挑発的なことを書くのは、ひとえに未経験の方にはぜひ足を運んでほしいからである)。
シネマヴェーラは邦画も洋画も上映するが、「映画史上の名作」として初期の海外映画――たとえば1920年代から30年代の西部劇や、ハワード・ホークス、アルフレッド・ヒッチコックといったハリウッドの巨匠の初期作品を定期的に上映することに定評があり、音のない無声映画をここではじめて見たという観客も決して少なくはないだろう。筆者にしてもまた、「アメリカ映画の父」と呼ばれるD・W・グリフィスの代表作『イントレランス』(1916年)や、ドイツの巨匠フリッツ・ラングが日本文化に題材をとった『ハラキリ』(1919年)などといった無声映画の名作を、ここではじめて見ることができた。
個人的に心に残っているのは、2018年2月に行われた「戦後映画史を生きる 柳澤壽男監督特集」。柳澤は小川紳介・土本典昭とならぶドキュメンタリーの巨匠と呼べる存在だが、小川や土本と比較し、上映される機会はきわめて限られていた。いわゆる「シネフィル」でも、彼の名前を知っている人もまた少なかったと思う。
しかし、彼の作品群は一般的に代表作と目される『夜明け前の子どもたち』(1968年)『ぼくのなかの夜と朝』(1971年)のような福祉を題材とした作品に留まらず、記録映画やPR映画、またフィクション作品など多彩な広がりを見せており、さらにはその根底にあるのは、松竹のスタジオで培った伝統的な演出技法だった。その意味では「戦後映画史」というタイトルは決して誇張ではなく、この上映によって、自身に欠けていた日本映画史のピースのひとつを埋められた、という観客も、決して少なくはなかったのではないだろうか。監督自身の知名度は決して高くなかったにもかかわらず、期間中に筆者が目にした劇場の入りは、いずれも多いものだった。
「基本的にはパブリック・ドメインの作品を中心に上映しています」と語るのは、支配人の内藤由美子さん。つまり、著作権の保護期間が終了した(映画の場合、公表から70年が経過した)作品の権利を買い取り、そうした作品に独自で字幕をつけて上映する形にするという。そして、その作品のデータはその後も持ち続けられるため、ひとつの特集で扱った作品を別のプログラムでも上映することができ、上映にかかるコストの削減にもつながるという利点がある。
コロナ禍の影響の中、これは被害の軽減につながった。4月4日以降、休館が続いているものの、「もちろん、スタッフの賃金や公共料金の問題はありますが、閉館は考えておりません」と内藤さんは力強く語った。現状、無声映画を(定期的に)上映する映画館は、日本の旧作映画を専門とする神保町シアターと、このシネマヴェーラを除けば首都圏にはほぼ存在しない。もちろん、シネマヴェーラの再開後のプログラムはまた多彩なものとなるだろうが、筆者としてはふたたび無声映画がかかる機会を、いまから楽しみにしたいところだ。