「新幹線の父」の生地でも新幹線がないJR四国の切なさを思い知る<コロラド博士の鉄分補給>

第四代国鉄総裁 十河信二胸像

第四代国鉄総裁 十河信二胸像2020/11/0撮影 牧田寛

第四代国鉄総裁十河信二氏

 この鉄道歴史パークin SAIJOは、四国の鉄道史と四国新幹線がテーマと考えられますが、一方で新幹線の父とされる第四代国鉄総裁十河信二氏顕彰の意味合いも持ちます。その中心が十河信二記念館で、小さい建物ですが、十河信二氏の生い立ちから生涯、国鉄総裁としての功績、とりわけ新幹線事業の発案、実行者としての足跡を展示しています。  十河氏は隣の新居浜市で生まれ育ち、現在の西条高校から一高、東京帝大法学部をへて鉄道院という当時のトップエリート街道を進んだ鉄道官僚です。手がけた事業は、全国改軌でしたが、政争と第一次大戦後の社会の混乱によって頓挫しました。その後、関東大地震を経て復興局疑獄事件の渦中に陥り逮捕され、無罪となりましたが鉄道院を追われました。十河氏は、浪人時代を経て南満州鉄道(満鉄)総裁からの誘いで満鉄理事となっています。氏は、満鉄の中ではごく少数派の関東軍支持派であり、満鉄と関東軍を一体化させて行きました。その後関連会社を渡り歩き、1938年には浪人となり、引き揚げののち、1945年に西条市長となっています。満鉄時代の経歴からよく戦犯指定されなかったものだと筆者は驚かされます。  1946年には西条市長を辞任し、鉄道弘済会会長を経て1955年に大混乱によってなり手の居なくなった第四代国鉄総裁に71歳で就任しています。余りの高齢のために「鉄道博物館から引き出された古機関車」と酷評されましたが、混乱の坩堝にであった国鉄をよく再建し、近代化を成功させ、その過程で新幹線鉄道計画を発案、事業化しました。残念ながら三河島事故の責任と新幹線事業の大幅な予算超過の責任によって再任されず1963年に退任しています。  その一年後の1964年10月1日に行われた新幹線出発式に国鉄は十河氏を招待せず、このことがのちに国鉄の大きな失点となってしまいました。  十河氏は、1969年に名誉西条市民となりましたが、1981年に97歳で肺炎のため病没しています。  十河氏は鉄道官僚のトップエリートと言え、とくに全国改軌は、新幹線事業の成功という形に変えて実っています。ところが本土四島の中で四国だけが何故か整備新幹線計画の対象とされず、本四連絡橋に準備工事がなされながら一切着手すらされていないというのはたいへんに皮肉です。

国鉄時代の鉄道用品が目を引く!

 四国鉄道文化館では、様々な方が提供した鉄道コレクション、鉄道模型がたくさん展示されています。展示館の大きさに比してかなり多めのために展示できる場所は全て使っているので、館内が少し狭く感じるほどです。  その中で、国鉄時代の鉄道用品が目を引きます。とても懐かしいものもありますし、中には見たことが無いものもあります。ショウケースの中には、元国鉄職員の眞鍋定氏提供の真鍋コレクションの一部が展示されています。写真でご紹介します。説明の多くはキャプションで行います。
真鍋コレクション1

鍋コレクション1 2018/11/02撮影 牧田寛
信号炎管:軌道に何らかの支障、事故が生じたときに、後続、対向の列車に危険を知らせる発煙筒の一種。赤い炎が光ります。
タブレット:主として単線区間での通行許可証である真鍮製の玉。これをホルダに入れることでそれを持つ列車のみがその区間を走行できました。通票とも呼びました。
スタフ:ここでのスタフは、通票ではなく運行時間表です。運転席の左手に挿すことが多いです
鉄道電話機、携帯沿線電話機(木箱):駅や鉄道施設、沿線での音声通信を行う専用電話機

真鍋コレクション2

真鍋コレクション2018/11/02撮影 牧田寛
融雪カンテラ:雪で転轍機(ポイント)が支障するのを防ぐため、融雪カンテラを転轍機内に置きました
合図灯:夜間など、駅員さんが列車に合図を送るもの

真鍋コレクション3

真鍋コレクション2018/11/02撮影 牧田寛
融雪カンテラ
合図灯
停止位置目標(明治期)、前照灯(8620)、前照灯(キハ55)、風速計、鉄道気象告知板

真鍋コレクション4

真鍋コレクション2018/11/02撮影 牧田寛
ダンチングマシーン(日付印字機):硬券(厚いボール紙)の切符を発行する際に、日時を印字する機械

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