こうした感動が冷めやらぬうちに、受講生たちは次のコースの受講を勧められる。そして最後のコースでは「セミナーで学んだ人との関わり方などを日常生活で実践する」「本当の自分を見つけることができたセミナーを、親しい人と分かち合う」といった謳い文句の「実習」として、無償の勧誘活動を課せられる。たとえば「3人誘います!」などと自己目標を宣言するが、「本気さが足りない」「できるかできないかのラインを目標にしなければ意味がない」などと言われ、結局厳しい勧誘ノルマが課される。
マルチ商法の場合、セールスマン(ディストリビューター)が商品を売ったり、自分が勧誘して引き入れた人間が売上を出すと、ディストリビューターが「儲かる」という仕組みが売りだ。しかし自己啓発セミナーでは受講生は何人勧誘しようが1円も儲からない。「セミナーで感動した」という喜びと、受講直後の高揚感だけが原動力だ。ある編集者はこれを「心のねずみ講」と呼んでいた。
セミナー会社にしてみれば、カネを払ってセミナーに参加した人が無償で次の客を連れてきてくれる。広告費も人件費もかけずに、合計数十万円もするセミナーに客が次々やってくる。
こんな美味しい商売が、マニュアル通りやるだけで誰でもできる。セミナーを受講してのめり込んだ人がアシスタントになり、トレーナーになり、やがて離脱して自分でセミナー会社を始めるというケースが多発した。80年前半から末にかけてのことだ。
折しもバブル経済が到来し、成金と同時に「お金よりも心の充足を」といった考えをもてはやす「意識高い小金持ち」も大量発生する。自己啓発セミナーは当時、金をかけずに客が集まる夢のようなベンチャー・ビジネスだった。
こうして80年代に大量発生した自己啓発セミナーは、決してまともな商売とは言い難い。しかしそれでも、基本的には宗教やオカルトとは無縁のものだった。飽くまでも、心理学的なテクニックを悪用した自己啓発ビジネスである。
もともと税理士だったライフスペースの高橋弘二氏も、ライフ・ダイナミックスのセミナーを受講し、トレーナーになった。ライフ・ダイナミックスの大阪支部で活動していたが、仲間を引き連れて独立し、83年にライフスペースを設立した。
「ライフ・ダイナミックスにあった大量のマニュアルを、コピーしたり手書きで写したりして持ち出した。ライフスペースのセミナーも、ライフ・ダイナミックスそのまんまだった」(前出の元幹部)
このライフスペース幹部は、80年代のうちにライフスペースを離れている。「高橋弘二がおかしくなってきたから」だという。
「マニュアル通りにやるだけで、受講生たちが面白いように泣き叫んでトレーナーの思い通りの反応をしてくれる。マニュアルがすごいだけのことなんだけど、それを自分の能力だと勘違いして万能感を抱いてしまうことがよくある。それを我々は仲間内で“
トレーナー病”と呼んでいた。高橋弘二もそんな感じになっているように思えた」(同)
90年代に入ると、バブル崩壊により景気が後退。また80年代末以降、自己啓発セミナーは「洗脳セミナー」などとしてメディアに取り上げられ、高額な料金や勧誘活動が消費者問題として社会問題化した。80年代に大量発生したセミナー会社は、ここから斜陽産業化し、00年代にかけて多くの会社が廃業したり商売替えをしていった。
たとえば2012年に『福島原発事故独立検証委員会 調査・検証報告書』を出版した
ディスカヴァー・トゥエンティワンは、80年代に設立された自己啓発セミナー会社「
iBD(I’s a beautiful day)」の出版部門を受け持つ関連会社だった。iBDは90年代から「コーチング」と呼ばれる、自己啓発セミナーのプログラムとは別のカウンセリング資格ビジネスに移行している。
フォークデュオ
「ゆず」の北川悠仁の母親は宗教団体「
かむながらのみち」の教祖だが、悠仁の兄が中心となって宗教団体とは別に自己啓発セミナー「
ETLジャパン」も経営していた。兄は前出の
ライフ・ダイナミックス(ARCインターナショナルと改称)でトレーナーを務めていたこともある。このETLジャパンは、受講生減少により2010年に閉鎖されている。
ライフスペースも、90年代に入って受講生が減ったと聞く。商売上の都合なのか歪んだ自己承認欲求の暴走なのかはわからないが、この頃から、前出の幹部が言う高橋氏の「トレーナー病」はさらに悪化していったようだ。
91年前後から高橋氏は「人の過去や未来が見える」などと口走るようになり、それを「ビジョン」と呼んだ。従来の自己啓発セミナーでは、「なりたい自分」のあり方などを指して「ビジョン」という言葉を使うが、高橋氏のような超能力的な意味合いではない。
ライフスペースは「ビジョンセミナー」なる名称のセミナーも開始し、93年には高橋氏がインドに赴きサイババに会う。やがて受講料金が最高で500万円などというコースまで登場した。高橋氏はサイババから後継者に指名されたと自称し、相手の頭部を軽く叩く「シャクティパット」という儀式で病気を治すことができるなどと主張し始めた。
95年には、熱湯風呂に入る修行で男子学生が死亡。この事件も、受講生減少に大きく影響したようだ。そして97年、新たに「SPGF(シャクティパットグル・ファウンデーション)」という団体名を名乗って、シャクティパットによる病気治療を本格的に謳い始める。集客不振から、「宗教化」に拍車がかかった形だ。
この中で発生したのが99年のミイラ事件だった。