戦時中、戦争遂行のため電力や食料、住宅など様々な産業が国家によって統制された。敗戦を迎えると、これら統制団体はGHQ(連合国軍総司令部)の手によって順次解体されたが、議論となったのが営団地下鉄の扱いであった。
再び自らの主導のもとで地下鉄建設を進めたいと考えた東京都は、営団地下鉄は都民の意思が反映されない非民主的な組織であるとして、営団地下鉄廃止キャンペーンを展開し、あわせて営団地下鉄の買収と新線建設計画からなる「都営高速度鉄道建設計画」を発表した。しかし、戦災復興事業を抱える上、地下鉄を建設する技術・経験のない東京都に地下鉄整備を任せることはできないとして政府が強く反対したため、営団廃止の動きは実現することなく収束した。
GHQも当初、営団地下鉄を解散させる方向で検討を進めたが、政府と営団がGHQに対し、戦時統制を目的とした組織ではなく、東京の地下鉄整備・運営のために設立した組織であると説明を重ね、存続が認められた経緯がある。こうして戦後も営団地下鉄が地下鉄建設を担うことが決まり、1952年から戦後初の新線として丸ノ内線の建設が始まった。
ところがその頃、東京の人口は復興計画の予想をはるかに超えたペースで拡大していた。敗戦直後(1945年11月)の人口調査で約277万人まで減少していた東京都心(現23区)の人口は、10年後の1955年には700万人まで増加。営団地下鉄は地下鉄の整備を急ぐものの、人口の拡大に路線の整備が追い付かない状況になってしまったのである。都心の鉄道はパンク状態となり、私鉄各社は相次いで独自の地下鉄建設計画を発表。また東京都も再び「都営地下鉄」建設計画を構想し、首都東京の交通計画は大混乱に陥った。
こうした状況を整理、解決するため、運輸省(当時)は1956年に「都市交通審議会」を設立し、各社の計画の調整に乗り出した。その結果、各私鉄による独自の地下鉄建設は、都市計画上・交通計画上の観点からみても問題が多いため計画を取下げさせ、代わりに今後建設する地下鉄新線は私鉄と直通運転を実施することとし、実質的に私鉄の都心乗入れを認めた。
私鉄が乗り入れる地下鉄新線は営団が引き続き建設を進めるとしたが、営団だけでは必要な地下鉄建設が間に合わないことから、例外的な緊急措置として東京都にも一部の路線の建設を認めた。こうして現在の地下鉄と私鉄の相互直通及び、地下鉄事業者の二元体制が確立したのであった。
営団地下鉄は保有する未成3路線の免許のうち、1号線の免許を東京都に譲渡。営団が2号線(後の日比谷線)と5号線(後の東西線)、東京都が1号線(後の浅草線)を分担して建設することが決定した。1号線は押上で京成電鉄、泉岳寺で京急電鉄と相互直通運転を行うこととなり、従来の銀座線、丸ノ内線とは異なり、通常の電車と同じパンタグラフ方式を採用した。
1960年12月、日本で初めて私鉄と相互直通運転を行う地下鉄路線として、浅草線が開業。そして同時に、都営地下鉄という新たな地下鉄事業者が誕生したのである。これが東京の地下鉄二元体制の始まりであった。
<文/枝久保達也>
鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。