なぜ東京には東京メトロと都営地下鉄、二元体制なのか?<東京地下鉄100年史>
戦後も解体されなかった営団地下鉄
建設が間に合わず東京都に浅草線敷設を許可
こうした状況を整理、解決するため、運輸省(当時)は1956年に「都市交通審議会」を設立し、各社の計画の調整に乗り出した。その結果、各私鉄による独自の地下鉄建設は、都市計画上・交通計画上の観点からみても問題が多いため計画を取下げさせ、代わりに今後建設する地下鉄新線は私鉄と直通運転を実施することとし、実質的に私鉄の都心乗入れを認めた。
私鉄が乗り入れる地下鉄新線は営団が引き続き建設を進めるとしたが、営団だけでは必要な地下鉄建設が間に合わないことから、例外的な緊急措置として東京都にも一部の路線の建設を認めた。こうして現在の地下鉄と私鉄の相互直通及び、地下鉄事業者の二元体制が確立したのであった。
営団地下鉄は保有する未成3路線の免許のうち、1号線の免許を東京都に譲渡。営団が2号線(後の日比谷線)と5号線(後の東西線)、東京都が1号線(後の浅草線)を分担して建設することが決定した。1号線は押上で京成電鉄、泉岳寺で京急電鉄と相互直通運転を行うこととなり、従来の銀座線、丸ノ内線とは異なり、通常の電車と同じパンタグラフ方式を採用した。
1960年12月、日本で初めて私鉄と相互直通運転を行う地下鉄路線として、浅草線が開業。そして同時に、都営地下鉄という新たな地下鉄事業者が誕生したのである。これが東京の地下鉄二元体制の始まりであった。
<文/枝久保達也> 鉄道ライター・都市交通史研究家。1982年、埼玉県生まれ。大手鉄道会社で広報、マーケティング・リサーチ業務などを担当した後、2017年に退職。鉄道記事の執筆と都市交通史の研究を中心に活動中。
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