もう一つ高大接続システム改革会議の中である方が次のような趣旨の発言がありました。
「今の大学入試の数学の問題は、与えられる条件に無駄がない。つまり、問題文にある条件はすべて使う。これでは問題の解決のヒントになり現実的ではない」
これは、一つの高校数学の問題を解いていて、それが解けないならば、まだ使っていない条件に注目すれば正解がわかってしまうということです。これを防止するために、例えば、次のような問題を出すべきということでしょう。
私の父は、1975年に生まれた。ある年の1月1日の父の年齢は45歳、私の年齢は15歳である。父の年齢が私の年齢の2倍になるのは何年後の1月1日であるか。
この問題文の中で父が生まれた年は、問題解決に関係ありません。このように問題の解決に無関係のものも入れるべきだということです。
そもそも、日常の生活の中においてもその中に潜む「数学」を見つけるには、いくつもの不必要な条件の中に埋もれている必要な条件を選び出します。そして、それを数式化して解決します。決して、すべての条件が必要というわけではありませんので、必要なものを「選ぶ」という「判断力」が必要になります。それを実現しようとして問題文が長くなったり、問題の解決に全く関係のない文章が含まれていたりします。
しかし、不必要な情報のない問題が特殊だと言うのであれば、そもそも「大学入試の数学の問題」は「入試の枠に限らない一般的な数学の問題」の中ではかなり特殊なのです。なぜなら、大学入試問題は、
●きちんと考えれば、10分~20分程度で解決するものがほとんどである。(一般の数学の問題は、1年かかったり300年以上かかって解かれたものもある。)
●整理して書けば、A4用紙1枚程度の分量で解決する。(レポート用紙に何十枚にもなるような問題は出題されない。)
このようにかなり偏った問題ばかりなのです。その制約の中でほとんどの大学は、選びたい学生を選ぶことができるように入試問題を工夫してきたのでした。
数学者はルール自体には寛容だが、そこから不合理なことになると……
なお、共通テストの数学の試験では長文の中に、
太郎と花子の会話文が出てきます。この太郎と花子の会話文にアレルギーを感じる人も多いのですが、数学の専門家に限るとそれほどまで拒否反応を起こしている人は少ないように思えます。また、「長文だから」「不要な条件が入っているから」を理由に共通テストを否定する人も少ないように感じます。
これは、一私見にすぎませんが、私を含めた数学の専門家、特に数学者は「これが定義だ」と言われれば受け入れることに慣れていて、そこを出発点とした議論の論理的なミスに厳しい(当然ですが)人達なので、定義にあまりケチをつけません。ただし、よほどひどい定義なら何かしらのそう決めた妥当性を要求してきたりはします。簡単に言うと、数学者とは変なルールであってもルールはよく守る人種なのです。ですので、共通テストでは「太郎と花子の問題を出すよ」「余計な条件を含む長文を出すよ」という「ルール」が決められれば、それ自体には寛容なのでしょう。そこから何かしらの矛盾を含むことや不合理なことが見つかれば、逆に黙ってはいないとは思います。