モノレール、トロリーバス、新型都電――「地下鉄」までの試行錯誤の名残
上野モノレールが開通したのは
1957年12月のこと。
世間では1956年度の経済白書に登場した「もはや戦後ではない」という言葉が流行語となり、都内では建設中の東京タワーに注目が集まっていた当時、東京都は自家用車の増加にともなう交通事情の切迫から既存の都電(路面電車)に変わる新たな大量輸送交通機関の開発に取り組んでいた。
そこで、導入の検討が進められていたものの1つが「
モノレール」であった。東京都交通局はモノレールを都内の基幹交通の1つとすべく、実験的路線として上野モノレールの敷設を決定。常設のモノレールが建設されるのは日本初のことで、車輌と運行システムの設計は日本車輌が、桁・橋脚の設計は石川島播磨重工業が担当するなど、日本を代表する大企業が関わることとなった。
上野モノレールが採用したのは、軌道桁の上側にタイヤを置き、片腕でぶら下がって走るという新方式。車輌の上を良く見ると小さなパンタグラフが載っており、その上に架線、そしてその上に桁、さらにその上側をゴムタイヤが走行するという仕組みだ。
現在、上野以外に桁にぶら下がって走る懸垂式モノレールは国内に3社4路線あるものの、この片腕懸垂方式は鉄道車両製造大手の日本車輌と東京都交通局が独自に開発したもので「東京都交通局式」「上野式」とも言われる。現在まで、この方式を採用したモノレールは世界で唯一となっている。
片腕でぶら下がる世界唯一の「上野式」が良く分かる1枚。
車輌の上に小さなパンタグラフがあり、桁と車輌の間には架線がある。
腕の上にはゴムタイヤが付いており、桁の上に車輪がある。
東京都交通局は、このほかにも上野モノレールの建設と前後して、1952年には都電の一部路線を転換するかたちで「
トロリーバス」を初導入、1954年には新たに米国の技術を用いた高性能路面電車「
PCCカー」を新規導入、さらには都電の連結運転の検討を開始(実現せず)するなど、様々な実験的施策をおこなっていた。
しかし、上野モノレールが開通した1957年には都市交通審議会が「都内の地下鉄は営団地下鉄(現:東京メトロ)が運営する」というこれまでの原則を転換し、東京都交通局が地下鉄運営に参入することが決定。1960年には、営団地下鉄が所有していた建設免許の譲渡を受けるかたちで都営地下鉄初の路線となる1号線(現:浅草線)の一部区間が開通した。
この結果、トロリーバスについても1958年の延伸を最後に路線の新設がおこなわれなくなり、当初トロリーバスの新設が計画されていた区間には都営地下鉄三田線が建設されるなど、これ以降、都営の新たな鉄道路線はモノレールなどではなく殆どが「都営地下鉄」として建設されることとなった。
その後、都営のトロリーバスや高性能路面電車は、急激な自家用車の増加にともなってその威力を発揮することさえ叶わず、いずれも1960年代末までに姿を消してしまった。上野モノレールは東京都交通局の地下鉄参入が決まるまでの「
新たな交通体系を模索していた時代の数少ない名残り」の1つであるといえるのだ。
都電荒川車庫の横で保存されている流線型の高性能路面電車・PCCカー(5500形)。
品川-銀座-上野の第1系統限定で運行されたが、自動車の増加により性能を十分に発揮できなかったといわれる。
時速15キロ、僅か1分半だった空中散歩――果たして復活は?
上野モノレールの最高速度は時速約15キロメートルで、乗車時間は僅か1分半。短い空中散歩のあいだには、かつて都電が走っていたという通称・動物園通りや、西園に建設中の新・パンダ舎を見ることができる。
新しいパンダ舎の完成後にはパンダとモノレールを一緒に撮影することができそうだが、果たして営業の再開はあるのだろうか。
かつて都電が走っていた動物園通り。
左は建設中の新しいパンダ舎。
現在の車輌は2001年にデビューした40形で、古い設備とは裏腹に車輌は比較的新しく見えるものの、営業休止の理由は「
車輌の老朽化」だという。先述したとおり、上野モノレールは世界唯一の方式を採用している。そのため、故障したとしても部品は多くが「特注品」となってしまうのであろう。実際、上野モノレールは過去に何度が車輌故障に見舞われているが、そのたびに「長期運休」してしまうことも少なくなかった。
東京都交通局は、
将来的には上野モノレールの運行再開を検討するとしていながらも、東園-西園間は歩いたとしても僅か10分弱の距離。さらに、11月からはシャトルバスの運行も開始されるということで、コストが高いモノレールの早期運行再開は難しいかも知れない。
東西園間には「いそっぷ橋」が架かっており、歩いてもすぐの距離だった。
車輌には「ありがとう」の文字が掲げられていた。