内浦湾から見た関電高浜発電所(筆者撮影)
前回、関西電力資金還流事件について、安倍自公政権与党政治家へ波及したときと同じくして
差別扇動と言っても良い「関西電力被害者論」が跋扈したことを厳しく批判しました。
「
関西電力被害者論」では、話題の渦中となったもと元高浜町助役(故人)が強大な権力を持ったその根拠としてこの手の資金還流事件(裏金事件)としては一般的な、地域ボスへの企業からの不正な資金供与ではなく、大変に風変わりな根拠が提示されました。それが次に挙げるものです。
a)高浜発電所立地において、ある部落*(集落のこと)が立ち退きになり、それが森山氏の利権の源であった
b)森山氏の居住する集落(または関係する集落)が、高浜発電所への主要道路にあり、森山氏にたてつけば交通遮断された
<*九州や四国など西日本では集落を日常的に部落と称する場合が多い。また筆者が小中高校生の頃もごく当たり前に集落を部落と呼称していた>
これから第三回、第四回にかけて上記のa)及びb)についてファクトチェックをします。第三回の今回は、
高浜発電所建設にあたり立ち退きになった部落はあったのかです。
ここでは、前述の関電被害者論の根拠とされるa)b)の二点のうちa)について証拠を添えて論じます。
a) 高浜発電所立地においてある部落が立ち退きになりそれが、森山氏の利権の源であった
こういうときには、
原子炉設置許可の審議議事録を見るのが第一です。幸い、インターネットで公開されています。
◆
関西電力株式会社高浜発電所の原子炉設置に係る安全性について 昭和44年11月24日(1969/11/24) 原子炉安全専門審査会
※※※ 抜粋ここから ※※※
本発電所の立地条件および施設の概要は、次のとおりである。
1.1 立地条件
(1) 敷地および周辺環境
発電所の敷地は、若狭湾内にあって内浦湾を形成する音海半島の根元にあり、東は若狭湾に直接面し、西は内浦湾に面している。南北は山に狭まれ、中央は平地となっている。敷地はほとんど山林で人家はない。
敷地全体の面積は、約2,500,000m2(平方メートル:筆者追記)である。
原子炉は敷地北部の山麓に設置する。原子炉施設の中心から敷地境界までの最短直線距離は約800mである。また、敷地内には、原子炉施設の北側に一般道路のトンネルがあり、原子炉施設中心から、トンネルの出入口までの最短距離は、約200mである。
音海半島の大部分は山地であるため、海岸沿いに若干の部落*があるだけで人口密度は稀薄である。
敷地周辺には、南約1.3kmに小黒飯、西約1.3kmに神野浦、西南西約1.4kmに神野、北約1.8kmに音海の部落があり、人口は1km以内で0人、5km以内で約5,100人、10km以内で約20,000人、15km以内で約75,500人である。
<*集落のこと(筆者注)>
※※※ 抜粋ここまで ※※※
はい、「
人口は1km以内で0人」と公文書に明記されています。原子炉から1km以内に人家があってはなりませんが、高浜発電所では対象家屋はありませんでした。これで立ち退きに失敗してしまい、原子炉設置場所を変更に追い込まれたのが電源開発の大間原子力発電所です。
公文書を示しても、申請前に地上げをしたのだと言う人も出るでしょう。当時は、原子炉設置審査は、チョーユルユルで、高浜発電所の場合、
申請日は1969/05/24です。
許可の内示まで半年しかかけていません。申請書一部修正日に至っては、
1969/10/16です。ちなみに
12月に入って正式な許可がなされ、同月着工でした。
幸い日本では国土地理院で航空写真が全国に渡って公開されています。しかも航空写真の黎明期まで遡って公開されています。多くの写真は、戦後の米軍によるものと占領解除後の国土地理院によるものとなります。
ここでは、高浜発電所が立地する音海半島の航空写真を1948年からほぼ同位置、だいたい同じ縮尺で引用して、高浜発電所立地点がどのような場所であったかを見てゆきましょう。そして小屋一つ無かったというだけでは寂しいので、終戦後まもなくから福島核災害後までの高浜発電所の変遷を見てゆきましょう。
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