JCO臨界事故の悲劇から20年。改めて振り返る事故の概要と要因

JCO臨界事故の経緯 ~ 田中俊一氏の講演を参考に

 行われた講演はどれも意義深いものであったが、各講演の内容の紹介や講演内容に対するコメント(文句も含む)は別の機会に譲り、以下では、田中俊一氏の講演資料とその他の記録を参考に、JCO臨界事故の経緯を紹介することにしたい。  田中俊一氏の演題は『JCO事故と福島第一原発事故から学ぶこと』であり、JCO臨界事故と福島第一原発事故の両方に触れるものとなっていた。そう、テレビ等で紹介される同氏の姿を記憶している人は多いと思うが、田中氏は前の原子力規制委員会委員長として、飯舘村復興アドバイザーとして、福島第一原発事故にも深く関わってきた人なのだ。  JCO臨界事故の不幸中の幸いは、原子力を扱う専門機関が多数ひしめき合う場所で起きたことであった。その地の利を生かし、放射線測定や事故の収束作業、事故の発生原因の解明など、様々な場面で近隣の研究者・技術者が活躍している。当時の日本原子力研究所 東海研究所で副所長を務めていた田中氏も、そのうちの一人なのである。

臨界事故の発生

 田中氏の講演資料を紐解きながら、事故の発生過程を簡単に説明しておこう。臨界事故は1999年9月30日の午前10時35分、JCO東海事業所の「転換試験棟」で発生した。当時、転換試験棟では、実験用原子炉の一種である「常陽」の燃料作りに関わる作業が行われていた。酸化ウランの粉末に硝酸を混ぜて硝酸ウラニル溶液を作り、その濃度を均一化する、というものである。  JCOはその作業において、作業時間の短縮を主目的にしたと見られる複数の違反行為を行った。ウラン粉末と硝酸を混ぜる過程で使われるはずだった専用装置「溶解塔」は使われず、ステンレス容器(事故発覚後に“バケツ”と揶揄された)が使われた。さらに、濃度を均一化する過程で使われるはずだった「貯塔」も使われず、代わりに、別の目的で設置されていた「沈殿槽」が使われた(実は均一化の工程で貯塔を使うこと自体も違反行為だったが、貯塔の利用が社内マニュアル化されていた)。  これらの違反行為のうち、とくに沈殿槽の使用がその後の悲劇の直接的な原因となった。「貯塔」は臨界の発生を防ぐ形状・大きさで作られていたが、沈殿槽はそのような形状にはなっておらず、また容量の大きい物だった。さらに悪いことに、沈殿槽は二重構造になっており、冷却のための水が周囲を流れていた。そのような構造は、臨界状態の維持に役立ってしまうのだ。  これらのことが重なり、作業者たちによって臨界が達成される量の硝酸ウラニル溶液が注ぎ込まれたその瞬間、沈殿槽内で核分裂反応が発生、瞬間的に強烈な放射線が放たれた。沈殿槽が置かれた室内には、このとき3名の作業者がいたが、そのうち2名がこの瞬間に致死量の放射線を浴びたと考えられている。臨界はその後も維持され、最初の一撃よりは弱まったものの、沈殿槽からは尚も放射線が放たれ続けた。  JCO臨界事故は、以上のようにして発生した。  致死量の被ばくを受けた2名はその後、造血幹細胞移植などの治療を受けたが、死亡。残りの1名も重度の被ばくを受けたが、致死量には達しておらず、骨髄抑制(白血球の減少)の症状が現れたものの、無菌室での治療により回復、その後、退院している。また、沈殿槽からの放射線は室外にも届いており、他のJCO職員や近隣住民たちが大小の被ばく(0.01 mSv~49 mSvと推定されている)を受けた。

臨界収束作業が開始されるまで

 事故が発生した日の12時30分、東海村は防災無線で臨界事故の発生を伝えるとともに、近隣住民に屋内退避を指示した。これらの広報は、国や県からの指示を待たず、当時の村長であった村上達也氏が独断で行ったとされている。15時、東海村は半径350m圏内の避難を決定し、住民に避難を要請した。  田中俊一氏がいた日本原子力研究所 東海研究所でも、この前後から事故対応の動きが本格化している。13時10分には研究所内に対策本部を設置、村や県に専門家を派遣した。13時23分には科学技術庁の指示を受け、周辺地域の放射線測定を開始16時ごろ、臨界の継続を確認した齋藤伸三 東海研究所長の指示で、臨界を終息させる方法の検討を開始した。  16時30分、核燃料サイクル開発機構がJCO施設近隣で中性子線測定を開始し、17時ごろにはJCO敷地境界での中性子線量率が4 mSv/h程度と判明。18時ごろ、JCO職員が東海研究所に到着、手書きのスケッチにより沈殿槽と事故現場の状況を説明した。21時ごろにはJCOから沈殿槽の詳細図が到着し、臨界発生までの作業内容が報告された。  この頃、16時ごろから東海研究所で続けられていた検討により、臨界の終息には沈殿槽の周囲から水を抜くことが有効であると判明。23時ごろに田中俊一氏らが、24時ごろには住田健二 原子力安全委員会委員長代理(当時)がJCOに到着し、臨界終息のための行動を開始した。  なお、この間、22時30分には、科学技術庁の事務次官から助言を受けた茨城県知事が、10 km圏内の住民に屋内退避を要請している。  水抜き作戦は、住田健二氏の指揮、日本原子力研究所と核燃料サイクル開発機構の職員らの支援のもと、JCO職員によって実行された。当初、JCO側からは、核燃料サイクル開発機構にも作業に参加してほしいという要望が出たが、住田健二氏はこれを認めず、作業は設置者であるJCOの責任で行うべきとして、JCO所長を説き伏せた。この作業に参加した18名のJCO職員は、のちに一部から“決死隊”と呼ばれることになる。
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“決死隊”による水抜き作戦
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