緊急事態条項と
は国家緊急権を憲法に創設する条項だ。憲法学の通説である芦部信喜氏の定義によると、国家緊急権とは
「戦争、内乱、恐慌ないし大規模な自然災害など、平時の統治機構をもっては対処できない非常事態において、国家権力が、国家の存立を維持するために、立憲的な憲法秩序を一時停止して非常措置を取る権限」である。
そもそも憲法の目的は…、と書きはじめると迂遠なようだが、国家緊急権の本質であるので少々お付き合いいただきたい。
憲法の目的は、わたしたちの人権を保障することにあり、
国家権力を法で縛るために存在している。この権力を法で縛るという考え方を
立憲主義という。人はいつの時代も貪欲に権力を求める。そして握った権力を濫用する愚かさも持ち合わせている。そのため、権力を集中させた方が効率がよいとしても、あえて権力を立法・行政・司法に分け、にらみ合わせることで権力の濫用を防ぐ
「権力分立」の政治体制を採用しているのが立憲主義的な社会だ。
しかし、南海トラフ地震や首都直下型地震など国家の中枢を破壊するような巨大地震が発生し、道路・交通手段が破壊、インフラが途絶、といった想定を超える緊急事態には、平時の権力分立を前提とした制度では対応できないとして、国家緊急権を規定するべく緊急事態条項を盛り込んだのが今回の改憲4項目なのだ。
永井弁護士は、「
国家緊急権は『国家の存立のため』の制度だ。一番大事なのは国家であり、そのために権力分立をやめて権力を過度に集中させようというもの。これはフランス革命の前の絶対王政と同じ構造だ」と指摘する。
国家緊急権は、権力を一極集中させ、非常時の混乱状況を乗り越える強力な手段であるものの、
強度の基本的人権の制約を許すリスクを孕んだ危険なものだ。永井弁護士は、「国家緊急権が使われる典型的な場合は戦争のときであり、多くの国で野心的な軍人や政治家に濫用されてきた」とも指摘する。
ワイマール憲法下のナチスは、国家緊急権である大統領緊急令を発動させることで革命もクーデターも経ず、合法的に独裁を確立した。そして、国会の立法権をすべて政府に委ねるという全権委任法(「民族および国家の危難を除去するための法律」)を強行採決し、緊急措置を固定した。これによって、「人身の自由」、「政治活動の自由」などの重要な人権が過度に制約され、ナチスによる独裁は敗戦まで続いた。
日本でも
明治憲法下で4つの国家緊急権が用意されていた。
(1)緊急勅令制定権、(2)戒厳宣告の大権、(3)非常大権、(4)緊急財政処分だ。「治安維持法の刑罰の上限を死刑にする」という法案が議会に提出されて審議未了で廃案になったにもかかわらず、緊急勅令で法案通りに成立したという濫用事例もある。
このように国家緊急権は、
非常事態を為政者が自演して権力を集中させたり、いつまでも非常の措置を延長し続けたりして濫用されてきた歴史がある。とりわけ戦争と絡めて問題視される緊急事態条項であるが、今回はあくまで自然災害のケースでの検証が目的であるので、話を戻そう。
参議院の緊急集会があるし、自然災害時には一時的に内閣に立法権を認めている
2015年5月の衆議院憲法審査会において、自民党憲法改正推進本部長の船田元氏は、「(緊急事態条項について)大規模災害発生時などに、国会議員の任期が延長できることなどを憲法に規定しておくことは急務だ」と述べた。2018年のたたき台素案において自民党は、大地震などの大規模災害が発生した場合を想定し、緊急事態条項の必要性を主張している。
果たして本当に緊急事態条項がなければ、政府は大地震などの「自然災害」に対応することができないのだろうか?
これに対し永井弁護士は「戦前、大日本帝国憲法のもと引き起こされた悲惨な戦争の反省からあえて国家緊急権を憲法に入れなかったが、
(現行憲法は)災害に備えて2つの制度を設けている」と説明する。
一つ目は、
参議院の緊急集会だ。憲法54条2項は衆議院が解散されているとき大震災が起こった場合などの不測の事態に備えて、参議院の「緊急集会」を規定している。
【日本国憲法54条2項】
衆議院が解散されたときは、参議院は、同時に閉会となる。但し、内閣は、国に緊急の必要があるときは、参議院の緊急集会を求めることができる。
衆議院が解散されているとき、国の緊急の必要があれば、参議院の緊急集会が国会の代わりを果たし、政治的な空白を生まないように設計されているのだ。参議院の緊急集会では、暫定的に法律や予算の議決をして、採られた措置は次の国会開会後10日以内に衆議院の同意を得られなければ効力を失う、という規定である。これがまず緊急事態の対応として憲法に用意されている。
参議院の緊急集会が開催できる場合は良いが、首都直下型地震のように参議院の緊急集会すら開催できない場合はどうするのか?
そのような場合に備えて憲法はもう一つの制度を用意した。それが、
政令への罰則の委任の規定(憲法73条6号)だ。
【日本国憲法73条6号】
この憲法及び法律の規定を実施するために、政令を制定すること。但し、政令には、特にその法律の委任がある場合を除いては、罰則を設けることができない。
国会で法律が制定できないとき、内閣が政令を制定することになる。この政令に実際の効果を伴わせるためには、罰則の規定も合わせて設ける必要がある。しかし、その罰則により過度に人権制限が行われないよう、特に法律の委任(法律から委任を受けて細かい事柄を決める委任命令)がないと罰則は設けることができない。これにより国会が制定した法律で厳格な要件のもとに内閣は緊急時に罰則付きの政令を制定することができることになった。この
憲法73条6号を受けて、災害対策基本法109条・109条の2は厳格な要件のもと、緊急時に、内閣に一時的な立法権を認めている。
災害緊急事態に、国会が閉会中、参議院開催中、臨時会の召集や参議院の緊急集会をまつ暇がないとき、内閣は憲法+災害対策基本法により、特定の事項に限って、罰則付きの政令を定めることができるのだ。
【災害対策基本法109条・109条の2】(抜粋)
第百九条
1 災害緊急事態に際し国の経済の秩序を維持し、及び公共の福祉を確保するため緊急の必要がある場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置をまついとまがないときは、内閣は、次の各号に掲げる事項について必要な措置をとるため、政令を制定することができる。
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2 前項の規定により制定される政令には、その政令の規定に違反した者に対して二年以下の懲役若しくは禁錮、十万円以下の罰金、拘留、科料若しくは没収の刑を科し、又はこれを併科する旨の規定、法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者がその法人又は人の業務に関してその政令の違反行為をした場合に、その行為者を罰するほか、その法人又は人に対して各本条の罰金、科料又は没収の刑を科する旨の規定及び没収すべき物件の全部又は一部を没収することができない場合にその価額を追徴する旨の規定を設けることができる。
第百九条の二
1 災害緊急事態に際し法律の規定によつては被災者の救助に係る海外からの支援を緊急かつ円滑に受け入れることができない場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置を待ついとまがないときは、内閣は、当該受入れについて必要な措置をとるため、政令を制定することができる。
つまり、
濫用の危険がある国家緊急権はあえて設けず、災害などの緊急事態には法律を整備することで対処しようというのが日本国憲法の趣旨であり、そのための法律として
災害対策基本法が用意されているのであるから、自然災害における非常時の措置に関しては、
災害対策基本法を改正することで対処するのが筋ではないだろうか。