今回のTwitterルールの危険性をTwitter上で言及したところ、いくつか意見をもらった。要約すると、
「下品で悪意ある言葉を使わずに批判する権利は守られている」
「言葉上は褒めまくることで批判するという方法もある」
という類いの意見だ。
一見まっとうな意見に見えなくもない。下品で悪意ある言葉が褒められたものではないことは確かだ。別の方法で批判することは、もちろん不可能ではない。しかしここで求められているのはヘイトスピーチ対策だ。「下品な言葉規制」ではない。
「あんなひどいことをした●●(カルト集団)は人間じゃねえ!」
「教祖の息子までこぞって悪魔扱いして叩く✕✕(カルト集団)こそ悪魔だ!」
これが通報されれば削除され、それが繰り返されればアカウントを凍結されたりする。そんな場所で、カルト集団について市民が自由に語ることができるだろうか。
好ましくない言葉遣いであるかどうかと、それがヘイトスピーチであるかどうかは別問題だ。少なくともヘイトスピーチでない限り、下品で悪意あるように見える言葉を吐くことも表現の自由に属するものだろう。下品な言葉を使わずに表現することもできるが、表現の方法は表現する人間が選ぶ。選択肢があってこその自由だ。
問題があれば批判するなり裁判を起こすなりして落とし前をつけさせればいいのであって、禁止するのは行き過ぎだ。
たとえば、「イスラム教」を標榜するテロ集団がいたとしても、「イスラム教」全体を敵視する根拠にならない。当然、社会の中に存在するイスラム教徒全般に不利益を与えていい理由にもならない。この点は単純だ。「イスラム教」などという大きなくくりではなく、国や地域ごとに存在する宗教マイノリティについても同様だ。信仰を理由とした非難や攻撃を正当化する理屈はない。
厄介なのは「カルト」の存在である。カルトは必ずしも宗教団体とは限らないが、実際問題「宗教」や「宗教的」な集団は多い。すでに例示したオウム真理教(ひかりの輪)、幸福の科学、統一教会(現・世界平和統一家庭連合)などだ。
カルト問題に取り組む人々の間では、「カルト」を
人権侵害や違法行為を行う集団とするのが最も基本的な定義だ。つまり、その宗教団体の行いが社会との摩擦を生んでおり社会から批判を浴びて当然の存在だ。そこには被害者が存在するのだから、恨みつらみからキツイ言葉遣いで非難する人がいたとしても、必ずしも差別とは言えないだろう。
家族がカルトに入信してしまった、あるいは結婚を考えていた相手がカルト信者だった(相手の親が信者だった)等々、カルトに入信していない人をも巻き込む家族問題も、カルトにはつきまとう。信者でない人の中にも、特定の団体を「許せない」と感じている人は少なくない。統一教会による大学生への勧誘はかつて「親泣かせの原理運動」という言葉を生んだし、オウム真理教問題への取り組みも「(未成年者を含め)子供が入信してしまった」という親たちが坂本弁護士とともに作った「オウム真理教被害者の会」(現・家族の会)からスタートしている。
こうした人々が反感を募らせる相手は、「イスラム教」「仏教」「キリスト教」などという大雑把な括りでもなければ、何も悪いことをしていないマイノリティでもない。自分たちの人生や財産、あるいは家族を奪ったテロ集団「オウム真理教」であり霊感商法集団「統一教会」だ。幸福の科学の場合はここまで犯罪的な被害は聞かないが、それでも多額のカネを差し出し後悔している元信者や、親から幸福の科学学園への入学を強要され借金まで背負わされた幸福の科学2世もいる。教団内で対立し除名された後に「霊言」で中傷されるなどしている人もいるし、幸福の科学教祖・大川隆法総裁の長男・宏洋氏は、いままさに教祖・教団からの非難や訴訟の真っ只中にある。
弁護士や研究者、ジャーナリストなど客観的な表現が要求される立場の人々は、抑制的な表現を心がけたほうがいいに決まっているが、カルト被害の当事者たちは違う。彼ら自身が怒りや無念さを存分に示すことができなければ、カルト問題の深刻さを人々に十分伝えることができない。
多少下品な言葉や激しい言葉で教団を非難したくなって当然だし、カルト問題においてはそれも意義がある表現だ。これは、ヘイトスピーチとして禁止されるべきものなのだろうか。
逆に、たとえ相手がカルトであろうとも、非難の仕方によっては差別やヘイトスピーチになってしまうケースはありうる。教団への批判ではなく、個々の信者の人間性や権利を否定する方向に暴走した表現だ。
「●●(カルト集団)は社会を蝕む癌である」
その通りとしか思えない。しかし、これはどうだろう。
「●●(カルト集団)は社会を蝕む癌である。信者どもを叩きのめせ!」
「●●(カルト集団)はテロ集団である。行政は(集団ではなく信者個人に対しても)住民票を受理するな!」
「●●(カルト集団)は霊言で他人を中傷する劣化イタコ芸教団である。企業は●●(カルト集団)信者を採用するな!」
それぞれ、前半は教団への批判・非難だが、後半は個々の信者を攻撃し不利益を与えろという趣旨になる。これはもはや差別だし、ヘイトスピーチだろう。この類いの表現が規制されるだけなら、まだ理解できる。
カルト信者にだって人権はある。現役信者は、自分が所属する集団の問題から目をそらし、場合によっては霊感商法や偽装勧誘や批判者への攻撃において加害者の側面を持つ一方で、いままさにカルトの中で人権を侵害されている(あるいはその危険にさらされている)人々でもある。社会が彼らを差別することは彼らの社会復帰を損なう。カルト問題を念頭に置いたとしても、信者への差別は正当化できない。
こうして考えると、カルトに関しては、表現が下品だとか攻撃的だとか扱いが非人間的かということよりも、その表現の対象が何なのか(宗教団体なのか、その構成員なのか)が、重要な要素になるように思える。
それはおそらくカルト以外の宗教についても同じだろう。たとえばイスラム教の教義や指導者、イスラム社会のあり方について批判すること自体は差別でもヘイトスピーチでもない。イスラム教世界には女性の人権問題など、批判されるべき側面もある。こうした類の批判や非難ではなく、イスラム教徒への憎悪をかきたて不利益を与えることを目指すような表現が差別あるいはヘイトスピーチなのだろう。批判する側も、こうした区別を踏まえる必要がある。
しかしTwitterが今回発表したルールは、宗教団体に向けた表現への規制だ。これはつまり、構成員の利益ではなくカルト集団の利益につながるルールと言わざるを得ない。自覚があろうがなかろうが、Twitter社はカルトの手先だ。
冒頭で書いたように、宗教に対するヘイトスピーチにも対策は必要だ。しかし世の中にある問題はヘイトスピーチ問題だけではない。間違ったヘイトスピーチ対策は、ヘイトスピーチ以外の問題を生み出したり助長したりすることもある。そういったものとの兼ね合いの中で規制のあり方が模索されるべきだ。
Twitter社が今回発表したルールは、その点で、恰好の反面教師ではないだろうか。
2012年、私が『週刊新潮』で執筆した幸福の科学学園の実態を伝えるルポについて、同学園が1億円の損害賠償を求め訴訟を起こした。2014年12月に、週刊新潮と私の側の完全勝訴となる東京地裁判決が出たが、控訴審で幸福の科学学園は、記事を宗教に対するヘイトスピーチだとする主張を追加した。在特会による京都朝鮮学校への「抗議」をめぐる民事裁判で、在特会側の上告を再講師が棄却し、ヘイトスピーチの違法性を認めた高裁判決が確定した直後のことだ。
同学園をめぐる裁判は2016年に週刊新潮と私の側の完全勝訴が確定し、「ヘイトスピーチ」との学園側の主張も裁判では相手にされなかった。とは言え、幸福の科学が口汚いわけでもない批判的言論をも「ヘイトスピーチ」扱いすることで押さえ込みたがっていることは明らかだ。ヘイトスピーチ規制は必要だが、カルト宗教による言論妨害の道具になるような事態は避けるべきだ。
<取材・文/藤倉善郎>