筆者は、経済理論学会の学会誌『季刊経済理論』(55巻4号、2019年)にて「貨幣的経済学の展開」と題する特集を組みました。そこで先に紹介した内藤敦之氏に論文を寄稿してもらい、巻頭言にて「内藤論文が紹介した、表券主義の商品貨幣論批判は金属主義を指弾するもので、マルクスの商品貨幣理解と平仄(ひょうそく)が合わない。金属主義はむしろ財貨幣とでもいうべき内容であり、」財と商品の意味「をはっきりさせれば、古典派以来の交換手段的な金属貨幣論とマルクス的な商品貨幣論とが混同されることはない。」(括弧内は引用者による挿入である)と述べました。
内藤氏が、マルクスは取扱いが難しいと率直に述べているように、マルクスの商品貨幣論と古典派・新古典派の商品貨幣論とを同じ内容とみなすことは決してできません。
これは経済学の初歩の初歩ですが、そもそも新古典派に商品という概念は存在しません。新古典派が考える市場で取り扱われる「物」は財です。したがって、新古典派の商品貨幣論といわれているものは、厳密には
財貨幣論というべきものです。財交換または物々交換に基づく理論だからです。
つまり、物々交換論をベースに貨幣を考えるから、「物」(財)が交換の道具になり、最も便利な道具は金属だ、という解釈になってしまうのです。そうすると、金本位制は説明できるけれども、不換銀行券は説明できないことになります。しかも、りんごと魚を交換するような物々交換論を徹底するなら、そもそも貨幣に固有の問題を考える必要がなくなるので、経済学に貨幣論はいらない、という結論になります。
さて、商品の概念はマルクスによってはじめて与えられたものです。これは「物」(財)でもありませんし、金属でもありません。市場で売られているすべての「物」が商品です。つまり、みかんも著作権も等しく商品であり、かたちがあるとかないとか、金属か非金属とかいうことは関係がありません。
商品には、売り物としての価値がある、これが貨幣の基礎なのです。
内生的貨幣供給論も指摘するように、
現代の貨幣は中央銀行の債務です。そして、この債務の価値は中央銀行の資産にある商品によって支えられています。この関係は兌換があるかないか、商品が金属か金属でないか、という論点にかかわりません。
マルクスは、古典派の物々交換論を捨て、商品がお金で売買される資本主義論として経済学を再構築することで、古典派・新古典派、そしてMMTが解決できなかった商品貨幣論と信用貨幣論との関係を説明したといえます。
商品貨幣論に結びつけられた信用貨幣論の知見は極めて常識的なものです。すなわち、貨幣の価値は、銀行システムを媒介にして、市場で売買されている商品の価値にリンクされます。財政は、税を通じて市場で生み出された価値を集めて使うだけです。魔法を使う余地はどこにもありません。MMTが、物価という恣意的な留保を付けて、無制限ともいえる財政支出を容認してしまうのは、貨幣を論じるときに市場との関係をいったん切って、国の力という外部的な要因を持ち込んでしまうためです。財政を市場から遊離させる理論的な操作をしているようにもみえます。
ところで、冒頭「商品貨幣論側にも問題なしとはいえなかった」と述べました。新古典派とマルクス派と、マルクス派内部での二重の論争関係が複雑であったために、金属主義とマルクスの商品貨幣論との混同を、放置する結果になってしまったためです。
日本経済研究センターの岩田一政代表理事の見解にたいする中野氏の批判に、MMTの問題が典型的に現れています。中野氏は前著の中で、岩田氏の見解をこう整理しています。
「たとえば、岩田一政は、ペーパー・マネーの出現により、金属主義ではなく表券主義が正しかったことが示されたと指摘しつつも、『ただし、クナップの『貨幣国定説』のように、貨幣をもっぱら国の法による創造物であるとみることは正しいとはいえない。多くの発展途上国にみられるように、国が貨幣を法定しても、人々は貨幣とは別に金を退蔵することが多い』とクナップを批判している。」(『富国と強兵』)
この岩田氏の国定説批判にたいする、中野氏の反論は次の3点です。
1点目は、金が選ばれるのは「発展途上国では貨幣の背後にある政府権力が不完全ないしは弱体だからである。したがって、岩田が持ち出している例は、むしろ貨幣を貨幣たらしめるものは強力な国家権力であることを証するものである。」(『富国と強兵』)というものです。
中野氏は「貨幣を貨幣たらしめるものは強力な国家権力である」といいます。ここで問題とされるべきは、「国家権力」そのものではなく、その「強力」さです。国が貨幣を創ると主張しながら、弱い国では創れないともいうのです。しかしその国の強さはどうやって測るのでしょうか。また、「自国通貨建てで国債を発行している政府には、個人や企業のような返済能力の制約が存在しない」ともいわれます。この場合、国が強いから自国通貨建て国債を発行できると説明されるべき内容が、自国通貨建て国債を発行できることが国の強さの証拠とされ、転倒した説明になっています。
2点目は、ドイツの経済学者であるクナップの主張に関するものです。クナップは、貨幣は「国の法による創造物である」としていますが、岩田氏はこの説を批判しています。中野氏は、それに対して、クナップは「貨幣の本質」を「法貨」だとはいっていない、と主張しているのです。
この主張はなかなか面白いものです。中野氏はクナップの国定貨幣のベースには信用貨幣があると解釈し、私人間で形成される信用貨幣だけでは経済が安定しないので、「信用貨幣は、法律そして国家を必要とする」とか「『国定信用貨幣論』は、貨幣供給の内生性を基礎としつつも、国家という外生性を導入して補完したものと言える」とかと指摘します。これでは文字どおり国家は「補完」であり、貨幣の本質を規定していません。中野氏の著書の矛盾点といえますが、国定貨幣の解釈としては斬新であり、内容上、信用貨幣論に優位性を与えている点で非常に好ましい解釈です。
3点目は「これが最大の問題点なのであるが、岩田が、不換紙幣が貨幣として通用している理由は国家権力以外にもあることを示唆しながら、それが何かを明らかにしていないということである。おそらく岩田は、現実問題として表券主義を受け入れざるを得なくなっているにもかかわらず、なぜ表券主義が成り立ちうるのかを理論的に理解できず、金属主義的な貨幣観から完全に抜けきることができていないのであろう」との指摘です。
反論されている岩田氏にも、金との兌換がある紙幣が、不換紙幣(不換銀行券)になったときの説明原理をもっていないという限界があるようですが、「不換紙幣が貨幣として通用している理由は国家権力以外にもあることを示唆」する着眼は正しいといえます。
発展途上国は国が弱いから、金が商品貨幣になり、貨幣を国定できない、との説明は、国が貨幣を創るとの命題に矛盾します。権力の強弱で貨幣が商品貨幣になったり、国定貨幣になったりすると考えてしまうと、国定貨幣論は貨幣の本質を説明する理屈ではないことを認めてしまうことにもなります。日本やアメリカは国の権力が強いから貨幣を国定できるわけではなく、ドイツやフィンランドが国の権力が弱いから貨幣を国定できないわけでもありません。国の力は経済力です。経済成長率や経済規模に現れるその国の商品経済の強さが貨幣の価値を支えているのです。MMTや国定信用貨幣論では、こんな基本的な関係さえも見落とされてしまうのです。
繰り返しますが、発展途上国やユーロ圏の国々の権力は本当に弱いといえるでしょうか。自国通貨建て国債の発行ができないことをもって権力が弱いとみなしてはいないでしょうか。
ところで、岩田氏にも問題なしとはしません。現実が変わったから旧説が間違っていたと解釈する、反省的でない思考法はあらためなければなりません。その発想は、ニクソン・ショックに直面した経済学者たちが、商品貨幣論から国定貨幣論に飛び移った態度と変わるところがありません。直ちに説けない難解な問題に直面しても、踏みとどまって考え続ける知的な忍耐力が要されるのです。