(撮影/清義明)
香港で6月12日に起きたデモ隊と警察の大規模な衝突は、香港のみならず世界に大きな衝撃をもたらした。
香港のビジネスと政府施設の中心地帯である中環エリアは騒然とし、デモ参加者に80数名、警察側にも20名以上の負傷者が出た模様だ。
6月14日の本稿執筆時点では、香港市街では平穏を取り戻しており、デモ隊がターゲットとしていた立法会(香港議会)の入り口に配備された警察官10数人には物々しさは感じられない。すでに日曜日(16日)に、またデモが呼びかけられている。平日であの数万人はいただろう参加者であるから、さらに大規模になるだろう。嵐の前の静けさである。
香港の司法制度が中国に呑み込まれるのではないかという、香港市民の不安から、逃亡犯条例はここまでの反対運動となったのであるが、もちろんこれには前段があるのはご承知のとおりだ。2014年の「雨傘運動」と呼ばれる反政府運動がそれである。
この雨傘運動は約3カ月の間、香港の目抜き通りであるコーズウェイベイとモンコックで行われた。「オキュパイ」と呼ばれる非暴力の座り込み運動は、結局実るところは少なく、抵抗運動の目的であった行政府長官の選挙制度も、中国が事実上コントロールできる中途半端なもののままだ。
雨傘運動は警察の催涙弾に、非暴力の市民が立ち向かうというコンセプトを持っていた。これには香港政府も手を焼いた。強制排除はどうしても暴力的なものとならざるを得ず、それが香港の世論を敵に回し、さらなる抵抗運動を呼ぶ可能性が否めず、さらには国際社会からの反発も予想されたからである。
この雨傘運動をしのぐ勢いで、今回また反政府運動が巻き起こった。12日の香港島の騒乱に先立つ、一般市民を巻き込んだデモでは約100万人(警察発表では約30万人)が街頭に繰り出したという。