「何が虐待なのか」を判断する権利は、本来、子ども自身にあるはずだ。たとえば、幼稚園の頃から体を打撃する空手を学んできた小中学生は、師匠の父親に殴られても蹴られても、身体的虐待とは思わない。むしろ、知らない相手と戦う試合の方が、どんなキックやパンチが飛び出すかわからないので、よっぽど怖がる。
そのように親にずっと応援され、空手大会でも優勝経験も重ねるようになって、「中卒でアメリカへ空手修行に行きたい。カズ(三浦知良)だって高校を辞めてブラジルへ飛んだじゃないか」とワクワクしながら夢を語る少年がいた。だが、両親に無理やり高校へ進学させられた。渡米のためのアルバイトも禁じられ、「大卒でないと食えない」という親自身の不安を押しつけられた。やりたくもない受験勉強しかさせてもらえず、プロ空手家になるための練習時間は一切奪われた。
現在、彼は20代後半になり、情熱を賭けるものを見失い、ひきこもりながらうつ病に苦しんでいる。夢を泣く泣くあきらめさせられた彼にとって、虐待は親権によって支配され、生きがいや挑戦権を奪われることだった。こうした被害があっても、親はその子のその後の人生に責任をもたない。そもそも、1人の人間の人生に、親だからといって責任を持てるだろうか?
厚労省は、身体的虐待・性的虐待・ネグレクト・心理的虐待の4つしか子ども虐待として認めていない。だが、高齢者虐待や障がい者虐待では認められている経済的虐待が子ども虐待でも認められる必要があることは、
以前の記事で書いた。しかし、行政では対処が難しいタイプの子ども虐待も、少なからずある。たとえば、ここ数年、ネット上の話題になっている「教育虐待」だ。
自分の意志もはっきりしない幼稚園の頃から、英会話にピアノ、書道やそろばんなどに同時に通わせ、週の半分以上を遊びに使えないまま、友人関係を学ぶチャンスを奪われて育つ子もいる。小学生になれば、塾での成績の低さを親になじられ、学力が常に1番でないと生きている価値がないかように感じてしまう子もいる。中学生になっても、より高い偏差値を見せない限り、親からスケジュールを厳しく管理され、高学歴以外の人生の豊かさを学べない子もいる。
高校生の大学・短大進学率が54.8%(平成30年)に上る現代では、子どもの学歴が親の学歴を上回る場合も多い。だが、親の学歴コンプレックスによって子どもに自分の生きたい人生の進路を見失ってしまっては、元も子もないだろう。
東大卒でエリート官僚や電通の社員になっても、上司からの不当な命令に「No」と言える勇気が育てられないままだった人は、内面にストレスをため込んでしまう。その先にあるのは、うつ病や薬物依存症、自殺などの個人的な苦しみだけではない。不都合な現実を見ない原理主義者として、問題が生じれば隠ぺい工作に加担する「社会悪」に成長しかねない。
こうした教育虐待には、子どもが望む進路を親が無視し、勝手に先回りして決めたがるところに特徴がある。だが、これは親の学歴コンプレックスだけに起因するものではない。親権者には懲戒権が認められているからだ。政府・与党は子ども虐待防止に向け、今年2月から懲戒権の削除などの見直しを含め、家庭内の体罰を禁止する法改正の検討に入った。子どもにとっては、自分を支配し、奴隷化する権力にすぎない親権は、他にもさまざまな虐待を動機づけている。