セネガルの漁港から見えてくる日本の「SDGs(持続可能な開発目標)ブーム」への違和感

足立力也
 グリーンイメージ環境映像祭(主催:同実行委員会)が2月22〜24日、日比谷図書文化館で開催される。48か国から163本の応募映像作品からグリーンイメージ賞に選ばれた10作品のリストの中に、気になるタイトルを見つけた。セネガルの漁港に生きる人々を描いた「黄金の魚 アフリカの魚」だ。

アフリカ大陸西端の魚市場に群がる、カラフルな人々

セネガルの漁港

セネガルの漁港にある魚市場。カラフルさに目を奪われる

 2012年、国際会議のためにセネガルの首都ダカールを訪れていた筆者は、そのついでにセネガル国内を数日歩いて回っていた。  世界各国の会議出席者たちとともに車で南下し、人里離れた小さなホテルに投宿。激論の疲れを癒した後の、ダカールへの帰り道だった。右手にはバオバブが屹立する原野を眺めつつ、左手にははるか先にアメリカ州を臨む大西洋を拝む。  その時だった。ふと微かな匂いが、私たちの鼻腔を釣り上げた。魚の腐臭のような刺激は、徐々に強くなってゆく。のどかな風景から一転、車が無造作に集まる場所が現れ、人いきれを感じた。魚市場だ。  我々を釣り上げた匂いのもとは、ここに所狭しと並べられた魚たちだった。市場の目の前に広がる砂浜に、漁を終えた男たちが帰ってくる。女たちは、見たこともない大西洋の魚たちの鱗を落とし、皮を剥ぎ、すり身にしていく。  カヌーを大きくした程度の粗末な材木で造られた漁船。女性たちが身にまとう、独特の伝統衣装。そのカラフルさが、筆者の目に強く焼きついた。  このドキュメンタリーは、当時の筆者の記憶を生々しく呼び覚ました。と同時に、単なる現地事情だけでなく、自分自身が立っている足元と、アフリカ大陸の西の端との関係性にもあらためて考えを馳せるきっかけとなった。

世界の端から投げかけられる「近代化」への根本的な疑問

運び屋

漁を終えた男たちの船が帰ってきた。魚を取りに、運び人たちが集まる

 この映画では、セネガル南部のカザマンス地方にある港町で漁業に携わる人たちが淡々と描かれている。漁に出る男たち。漁を終えた漁船から魚を市場まで運ぶ男たち。魚を燻製にする女たち。それを買いつけて小売に卸す仲買人たち。  漁はもちろん、魚の運搬作業も命がけだ。沖に停泊した漁船めがけて、男たちが荒波をかぶりながら箱を頭に乗せて群がる。漁船の下敷きになる者もいる。魚の加工も厳しい労働環境で行われる。全身に煙を浴びながら燻製にするからだ。  それでも、仕事を求めて周辺国からもたくさんの人たちが出稼ぎにやってくる。「西アフリカの胃袋を支える」といわれるほど、この港町は食糧安全保障という意味でも非常に重要な役割を果たしている。  そこに、大資本が入ってきて加工工場を作る話が持ち上がる。いわゆる「近代化」の過程が、ついにこの「世界の端」を飲み込もうとしているのだ。  過酷な環境ではあるが、生活を守る最後の砦でもある。これまで我々人類が単線的に進んできた「近代化」を問い直す視線を、この映画は投げかける。  あらためて振り返ってみると、セネガルは常に世界の強者たちの理屈に取り残されつつ巻き込まれる、「近代化の被害者」であり続けているのかもしれない。
次のページ 
パリ・ダカの終点で見た奴隷積出港の歴史と塩採掘の風景
1
2
3



※「グリーンイメージ環境映像祭」の上映スケジュール等については、映画祭公式サイト(https://green-image.jp/)を参照のこと。電気の通らないモザンビークの村に銀行を設立しようとしてる合田真氏をはじめとした、多彩なゲストが登場するトークイベントなども行われる。
関連記事