そもそも「星矢」は1985年の連載当初からすでに多様性の宝庫だった。美形キャラは最後まで生き残り、ブサイクは瞬殺されるという明らかな区分けはあるものの、ステロタイプの男らしさ、女らしさ以外の多様なあり方を作品内に同居させていた。それは国籍や思想信条にまで及んでいる。
ジェンダーの多様性については、「男性プリキュア」が話題になるよりはるか昔に達成していた。その体現者としてアンドロメダ瞬のほか、蜥蜴座のミスティ、魚座のアフロディーテがいる。
二人ともアンドロメダ瞬同様、男とは思えないほどの美貌を持ち、ミスティについては全裸で夕日を浴びながら「神よ、私は美しい」と見開き2Pを使って言い放つ。御し難いナルシストではあるが武人としての行動に女性的要素はなく、主人公の星矢を最後まで追い詰める。
魚座のアフロディーテは美女のような外見に、武器が「薔薇」であるため誤解されがちだが、これも作者が(おそらく)無意識に置いた“トラップ”。言動は、他の男性的なキャラクターと何ら変わることはない。
主人公・星矢の師匠である女聖闘士の魔鈴も、女性性はきわめて薄いが職務に忠実で、随所で要の活躍をする。
原作終了後のスピンオフ「冥王神話」に至っては、最強である黄金聖闘士初のゲイ(?)キャラまで登場させている。
アンドロメダ瞬も然り、「少女のような外見をしているが、男として存在している」ことに意義があった。男性性の権化のような兄が、弟を同性として認め愛情を注ぐ姿も、それを強調した。
「ステロタイプでなくても良い」――それが作品の持つ重要なメッセージ性の一つであるのは間違いなく、アンドロメダ瞬はその一翼を担うキャラクターであった。
しかし、アンドロメダ瞬を女性化させることは、逆にポリティカル・コレクトネスというステロタイプに嵌る結果となっている。
また、こうした「性別のわからない美しい男」がマッチョな男と肩を並べる光景がすんなり受け入れられてきたのも、古来より続く男色文化の素地によるものと考える。そうした日本独自に育んできた要素も、女性化することで台無しにしてしまう。
たとえ商業的な配慮であったとしても、ファンの怒りを買って当然かもしれない。
同時に、アンドロメダ瞬の性別が男であることによって成り立っていたいくつかのサイドストーリーも失われてしまう。
瞬に思いを寄せる姉弟子の女聖闘士ジュネが単なる同僚になってしまうし、そして兄の一輝が修行地で心の支えにしていた瞬に瓜二つの少女・エスメラルダの立ち位置も原作とは異なるものになってしまう。
それに作中、女聖闘士は仮面を被る掟があるにもかかわらず、女性版のアンドロメダ瞬だけ「大人の事情」で免除されている。あまり勝手をしてくれるな、というのがファンの心の叫びだろう。