「上」の不正で閉ざされる末端の叫び。元町工場経営者が思う、日本のものづくり業界の衰退
前回。
製造業界と決別すべく、自らの手で工場を閉めたため、当時のことを思い出すのは「若干しんどい」、というのが正直なところではあったのだが、その工場閉鎖以降、改善するどころか、どんどん深刻化していく日本の製造業界の状況に対し、見解を求められる頻度が増え、これも自分の役割なのかもしれないなと思うに至り、現在長く書かせていただいている「トラックシリーズ」と併せて、こうして日本の製造業についても時折綴っていこうと思う。
ゴーン氏の一連の騒動を受け、先日、久しぶりに昔の工場に足を運ぶ機会があった。
閉鎖して5年。その翌年に何かの用事で1度訪れて以来、4年ぶりの「出社」だった。
真向かいに巨大な物流倉庫が建った以外、周辺はそれほど大きく変わってはいなかったが、毎度トラックが出入りしていた工場のシャッターに目を向けると、茶色い錆(さび)が筋状にいくつも伸びているのが見え、胸が痛んだ。
工場の業務内容は、金型研磨。大手自動車メーカーや系列の工場、家電メーカーの製造工場などから、プラスチック製品を製造する際に使用する金型を預かり、それを鏡のようにビカビカに研磨する、まさに「腕一本」の職人業だった。
砥石や紙やすり、大きな回転工具などで仕上げていくと、金型は驚くほど滑らかに輝きはじめるのだが、その一方で、職人自身は鉄粉や油まみれとなり、みるみるうちに真っ黒と化す。いわゆる3K(「きつい」「汚い」「危険」)の労働環境だったのだが、当工場には、それに加えて「K」がもう1つ付いた。
とにかく「細かい」のだ。ミクロン単位のゆがみや、肉眼ではほとんど見えないような傷にも、NGを突き付けられることがザラにあるため、最終仕上げの際は、工場の掃き掃除どころか、職人の周りを歩きまわることさえ憚れる。
「どんな傷やゆがみも許さない」
こうした繊細な仕事を生業とし、ヤンチャな従業員ばかり35人を束ねていた当時の父は、この国のモノづくりの一端を担う「磨き職人」として強いプライドを持っており、それゆえ、工場構内はもちろん、トラックに付く錆や傷、汚れにも非常にうるさかった。
「箱や足が錆びとる磨き屋に仕事出そう思わんやろが」
5年分の錆び筋を数えると、当時の父の口癖が思い起こされる。と同時に、彼をこの4年ぶりの「出社」に同行させなくてよかったと、心から思った。
日産の元下請け工場経営者として、ゴーン前会長の不正に対する思いを綴った
「3K」にもう一つ「K」があった町工場時代
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