そして、つい最近まで、いわゆる「オール沖縄」陣営には、安倍官邸に知事の椅子を奪われることが「確定」してしまったようなムードが漂っていた。
翁長知事急逝という大きなハンデを負ったとはいえ、「オール沖縄」側は、なかなか有力候補を見出せぬまま時間を浪費してしまった。
だがしかし、ギリギリのところで、「沖縄の底力」は発揮された。
土壇場で翁長氏の後継候補者の選考委員会(「平和・誇りある豊かさを!ひやみかち うまんちゅの会」調整会議)の調整会議のテーブルに玉城デニー衆議院議員の名前があがり、急転直下、全会一致で、玉城氏への正式出馬要請に至った。
一方、安倍政権・与党側は、複数名前の挙がった候補の中から、宜野湾市長の佐喜眞淳氏への「一本化」に成功し、とうにスタートを切っていた(市長職の辞表提出は、8月14日)ことに比べると大幅な出遅れだった。
故翁長雄志知事の次男・雄治氏(那覇市議会議員)が、ある集会の場で「これほど大幅に出遅れた選挙というのは、ちょっと見たことがない。それぐらいの出遅れです」と言い、緊張感・危機感の共有を選対関係者や支援者に求めていたほどだった。
出馬発表会見が、なんと投票日までおよそ1か月の8月29日。事務所開きが31日。政策発表が告示3日前の9月10日。付け加えるべき言葉もないほどの出遅れスタートであった。
真っ先に開かれた公開討論会は、9月5日の、佐喜眞氏の身内と言えるJC(日本青年会議所)主催のそれのみ。そこでは、佐喜眞氏のボロが出ないように、司会進行の仕方を含め、巧妙なシナリオが組まれていたように見えた。
しかも佐喜眞氏は、この討論会以外は拒否するという態度をとったため、厳しい批判の嵐が起こった。そこで佐喜眞氏は慌てて方針転換し、非公開の討論会なら参加すると表明。JCのような「拍手禁止」のルールがないと、玉城デニー氏への拍手喝采が凄くなることが予想され、それを恐れたのかとわたしは思ったが、しかしやらないよりはやったほうがいいに決まっている。
とはいえ、肝心の討論会の中身はというと、佐喜眞氏は「守られた環境」だったはずのJC討論会でさえ、ボロを出してしまった。
例えば、「女性の質の向上」という言葉を思わず吐いて、女性蔑視の本性をのぞかせてしまったり、基地問題解決をハナからあきらめ、政府に身をゆだねるかのような「限界がある」発言。そして9月11日に開催された県政記者クラブ主催の討論会(報道陣以外はシャットアウト)では、もっと重大な失点があらわになった。
クロス討論の場面で、玉城デニー氏からの「普天間閉鎖返還やオスプレイ配備撤回と『県内移設断念』を求める建白書にもあなたは署名・押印しているのに、その建白書の理念を破棄したと考えてよいのか」という趣旨の、新基地建設への賛否を問う率直な問いかけに対して、佐喜眞氏は、やはりというべきか、「普天間返還」ばかりを声高に叫び、それができるのは自分だけだと空威張りをしてみせるだけだったのだ。
つまり知事選挙の最大の争点であるはずの大問題に関して、まともに質問に答えようとしない不誠実な態度を貫いたのである。
一方の玉城デニー氏は、討論の中でも明確に辺野古新基地建設の理不尽さ、計画自体の無謀さを語った。
出馬表明の2日後、沖縄県が正式に「辺野古埋立承認の撤回」の手続きをとったことに対して、全面的に肯定した上で、あらゆる手法を駆使して新基地建設を阻止するという、まさに翁長氏の遺志を貫徹する姿勢を明確に打ちだした。
その際には、当時の知事・仲井真弘多氏がしでかしてしまった埋立承認時とは、大きく状況が変化していることも強調した。
例えば、昨年暮れから年明けにかけて明らかになった次の事実――。
埋め立て計画地の辺野古・大浦湾の現場には、2本の活断層が見つかっていること。さらに、マヨネーズ状と言われるほどの軟弱な地盤が明らかになり、そこを埋め立てて滑走路を建設するなど不可能であり、大規模な地盤改良工事などする際には、当然知事の許認可権限が生じること、などだ。
すなわち、この新基地建設計画自体がとうに破綻しており、これを強行する政府の姿勢が大問題であり、その政府丸抱えの佐喜眞候補が知事になってしまったら、辺野古・大浦湾が取り返しのつかないまでに破壊されるだけではなく、沖縄は大変な苦境に陥ってしまう。そのような警鐘を、選挙直前の公の場(討論会)で鳴らしたのである。