翁長雄志知事死去。今だからこそ知っておくべき「本土に届かない辺野古問題の誤解」
翁長知事がいよいよ公約を果たし、辺野古埋め立ての承認撤回を表明しました。
しかし8日の午後、膵臓癌による辞職の可能性が発表された後、沖縄県浦添市内の病院で死去されました。
任期満了に伴う知事選が11月18日に予定されていたが、今後前倒しされる見通しとなり、沖縄はますます混沌を極めるであろうことが予想されます。
沖縄に住んで2年間取材してわかったことは、どうやら情報が沖縄から日本本土(内地)に届く時に、ねじれや誤解が生じているという問題でした。
今回は、米軍の新基地建設に「容認」「反対」という結論は抜きにして、できるだけ中立的な視点で事実を積み上げ「辺野古」「高江」にまつわる初歩的な誤解について考えてみようと思います。
この問題の契機は1995年の米兵による少女暴行事件に遡ります。
1995年(平成7年)9月4日に沖縄県に駐留するアメリカ海兵隊員2名とアメリカ海軍軍人1名の計3名が、12歳の女子小学生を拉致し、集団強姦した強姦致傷および逮捕監禁事件です。しかしこのような凶悪な事件ですら、日米地位協定の取り決めによって犯人の身柄が拘束できませんでした。
この理不尽さに、戦後、米兵の横暴に耐え続けてきた沖縄県民たちの怒りは燃え盛り、米軍基地の整理縮小と日米地位協定の見直しの機運は高まりました。
翌96年には「基地の整理縮小と日米地位協定の見直し」求める沖縄県民投票が行われ、総投票者数の89%が賛成票を投じました。
基地反対の民意の高まりを受け日米両政府が沖縄県の米軍基地の整理縮小を検討を開始し、96年12月2日に合意に達しました(SACO合意)。
しかし基地の整理縮小のはずのこのSACO合意の中に、普天間基地は「辺野古」へ、そして北部訓練場返還は「高江」集落を囲むヘリパッドの建設が条件と盛り込まれました。基地縮小と言いつつ基地機能の強化ではないか? その疑念はいまだに残っています。
普天間の辺野古代替案について、地元名護市では1997年に市民投票が行われ、54%の市民の「反対」で地元名護の民意は示されました。
ところが当時の名護市長、比嘉鉄也氏が上京し当時の橋本総理に辺野古への受け入れを約束。直後に市長を辞任するという謎の行動に出ました。
今に続く混乱が始まった瞬間でした。
「沖縄の民意」とは何なのか?
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