思想家・西部邁大いに語る「都民ファは今の日本人によく似合っている」
2017.07.12
西部:そうはいっても、ゴロツキも混ざっていたイタリア・ファシスタどものある種の行動主義に、好意を感じる面があるのは確かだね。イタリアの酒場でコムニスタグループと喧嘩して、じゃれあってたファシスタグループ。彼らが抱えていた、過去への茫漠としたロマンと、未来への突撃という分裂した心境を、自分も小さいときからどこか持ちあわせていたんだ。
人間というのは、常に決断と行動の連続でしょう。そのためには、何らかの基準が必要で、それをどこに求めるかというと、冒険主義者でない限り、過去になるわけだ。でも、過去は現在とは異なるわけだから、参考になるだけで、行動しなければ分からないという部分もあるからね。
’58年に東京大学経済学部に入学した西部は、共産党への入党を果たす。その年の暮れには、共産党から排除されてできた左派の学生組織「共産主義者同盟」(ブント)に加盟。ブント中央の依頼を受け、「ごまかし選挙」によって東大駒場の自治会委員長に就任。全学連中央執行委員長も兼務しながら、岸信介内閣の日米安保条約改定の反対運動である「60年安保闘争」に向かっていく。
幼少期から吃音の傾向を持っていた西部だが、’59年4月に日比谷野外音楽堂での集会で壇上に立ったときに、突如として“名アジテーター”に変貌した。批評家の柄谷行人は、’11年の東日本大震災の後の反原発デモに参加した際に、「若い時の西部の演説が好きだった」という旨の発言をしている。
西部:若い頃は、とくにそうだった。共産党にも、本を一冊も読まないで入ったんだ。イデオロギーなんか全然なかった。「自分は滅びるけども、ただひたすらアクションをおこしていく」という行動主義だろうね。右翼でもよかったんだけど、その当時の右翼はボロッチかったし、大日本愛国党の赤尾敏は「親米愛国」でしょう。こっちは小さい時から「反米」だからさ。大日本愛国党が「反米愛国」だったなら、ドスを持って、山口二矢の先駆者にでもなってたかもしれないな(笑)。
共産主義者同盟(ブント)の一員として、60年安保をやっていたときには、共産党も含むエスタブリッシュメントに、一撃を与えてやろうという以外の原理原則はなかった。当時の俺は不思議な立ち位置にいてね。偽の委員長として、駒場に張り付いて、圧倒的に強い共産党の連中と朝から晩まで喧嘩に明け暮れてた。
だけど、同時に、全学連の中央執行委員という肩書きもついている。何かあると、街頭に出て、ダーッと宣伝カーの上に飛び乗って、演説をぶち、警察から逃げながら、学校へ行くというね。そんな何重生活を3年間ほど、最後までやっていたら、全部が見えてくる。こりゃダメだって。
だから、俺がやめようって決めたのは早かったわけだ。自分が持たないし、全てのデタラメが見えていたからね。安保闘争は4月、6月にかけて盛り上がったといわれるけど、我が党派は1月、3月の時点で壊滅的だった。でも、壇上ではそんなことをおくびにも出すわけにはいかないし、自分が先導者なんだから、さも情熱に駆られているように振る舞った。そいう分裂状態が長く続いた。
そんな頃かな。唐牛(健太郎、60年安保当時の全学連委員長)と話していたら、「お前の愛読書は何か」っていうから、「(アンドレ・)マルローの『征服者』だ」って答えたら、「俺のバイブルだよ」って言ってさ。二人とも「アクティブ・ニヒリスト」だったんだろうな。、「自分はどうにもならん、自分たちもどうにもならん。どうにもならんけど、物事のジ・エンドがくるまではやって仕舞え」という気分だよ。
自分たちの党派がいよいよ絶対的少数派になってきたときに、唐牛からまた聞かれたんだ。「お前、いまなに読んでるの?」って。「ヒトラーの『我が闘争』だよ」って答えたら、アイツが「俺も今読み終えたところだ」って驚いて言うんだ。くだらない本だと思ったし、観念を読んだわけじゃない。それでも、己の喧嘩というか、情念を掻き立てるには、マルクスの『資本論』なんか役に立たなかったんだ(笑)。60年安保のあとに、俺はうまい具合に沈没して、唐牛は(反共フィクサーとして知られた)田中清玄のところに行ったけれども、それも急にというわけじゃなかったんだね。
イタリア・ファシスタたちに理想はあったのかもしれないけれども、俺というファシスタにはそれがなかった。希望があれば絶望したのかもしれないが、アクティブ・ニヒリストの俺にはそれもなかった。世間への不満というよりも、自分への不満のが大きかったしね。でも、思い出があるとしたら、その自分がガキだった時代だね。
’60年7月に逮捕され、ブントが国会の南通用門からの突入を試みた6・15事件など3つの裁判で被告人となった西部は、東京拘置所で約4か月半にわたり独房生活を送った。その後、娑婆に出たときには、ブントは3つに分散し、弱体化していた。そのなかにおいて、全学連書記局は「プロレタリア通信派」という派閥を形成していた。
’61年3月14日に、プロレタリア通信派の最終会合が、青木昌彦(スタンフォード大名誉教授になった数理経済学者、’15年没)の下宿で開かれた。煮詰まる議論を前に西部は「事、ここに至れば、各自それぞれに決意表明をして、プロ通派はひとたび解散ということにしようぜ」と述べた。
西部:ブントの連中で、何があっても日和らずに、不退転の決意で頑張ったのは、俺と清水なんだね。清水が「お前はどうするんだ」と言うから、「もしも、政治的に生き延びたければ、革共同に行くしかない」と答えた。俺としては、「もしも」という部分に力を込めたつもりだったんだが、伝わらなかったんだな。
そのあとで、輪になって、一人一人がこれからどうするかを述べ合った。清水はそこで「革共同に行く」といった。あの時、「俺はいかないけど」と、もう一言いってやれていればな、と思うことはあるよ。俺もガキだったから、そこまで気がまわらないんだなあ。
俺は、戦線逃亡すると公然と宣言した。3年間走り回っていただけだから、本でも読んで少しは考えようと思ったんだけど、まあ実際には、パチンコ生活に入って行くわけだからね。人生っていうのはつくづくうまくいかないな。
その後、全共闘が暴れ始める前に、清水が家に訪ねてきたことがあった。’67年頃かな。疲れているというから、宿を手配してあげて、温泉に二人で入った。そうすると、清水が言うんだよ。「共産党と革マルをどうにかしたいから、いいアイディアはないか」って。俺は左翼運動にとっくに興味を失っていたのに、あいつのなかの西部像は昔のまんまだったんだ。
唐牛のことも忘れ難い。彼は、革共同を経て、田中清玄のところに行き、紆余曲折のあとで、北海道で漁師になった。北紋別へ遊びに行ったとき、あいつは漁で一日帰ってくるのが遅れてて、唐牛の奥さんが一人で寂しく待っていた。あまりにさみしいからから、うちのカミさんに「いくら持ってるか」と聞いたら、「10万円」という。それで、近くの電気屋に電話してレコードプレーヤーを持って来させた。漁師の街だからね、北島三郎のデビュー曲を景気付けにかければ、と思ってね。
それを唐牛が喜んでくれてな。北紋別を引き払って、東京に来る時もそれを持ってきて、自宅に人が来るたびに、「西部が買ってくれたレコードプレーヤーだ」って言っていたらしい。あいつが落ちぶれていくなかで、しっかりと付き合ったのは俺だけ、というのは確かだからね。人間が滅びていくのが、よくわかるからね。
仲は良かったけど、生活が違いすぎた。唐牛は魚を釣って、酒場で喧嘩して、という毎日でしょう。半分は呑んだくれだからね(笑)。一方の俺は、30過ぎてからは、少しは物を読んで、考えなきゃ、というのはあったし。お互いにそんなことは言わなかったけどね。それでも、心は通じていたという実感はある。
この歳になると、インテリ仲間よりも、呑んだくれの唐牛とか、(『友情』(ちくま文庫)で描いた元同級生でヤクザの)半チョッパリの上野とかとの交流の方が、なんか役に立つような気がしているんだよ(笑)。
60年安保を生きた「アクティブ・ニヒリスト」たち
「忘れ難き友人」としての清水丈夫と唐牛健太郎
『ファシスタたらんとした者』 長き人生と思想が紡ぎ出した最後のメッセージ |
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