――『フジ三太郎』はあんなに知名度と人気があったのに、何故アニメ化しなかったんですか?
サトウ:『サザエさん』のアニメを作っているところからアニメ化を頼まれたことはあったんだけど、4コマのアニメは難しいよ。そんなものやったって、せっかくの起承転結がうまく決まらず、ダラダラした物語になる。『サザエさん』だって、長谷川町子さん本人は最初はやりたがらなかったと聞いていた。
――でも、1968年と1982年の2回、テレビドラマ化されていますよね。
サトウ:本当はしたくなかったの。でも最初の時は相談に来た相手が伊丹十三と宮本信子だろ。伊丹さんは前から知っていてファンなんだよ。しかも主演が坂本九ちゃんだろ。大好きだから、じゃあいいかと珍しくオッケーした。でも、見たけど面白くない(笑)。あれでいいと言われればそれでいいけど、違うなと。週刊朝日に連載した『夕日くん』も、なべおさみで映画化してもらったけど、「これはないだろう」と(笑)。
――映画版の『夕日くん』、前からずっと観たいと思っているんですが、DVD化されないんですよね。
サトウ:『フジ三太郎』のアニメ化を断った後、僕が新潮社で書いた『ドタンバのマナー』を実写映画化したいという話があって、それは物語でなく、説明だから出来ないこともないだろうと思って「いいですよ」と言った。でも予算がなかったらしくて、古い黒電話を使って電話のマナーを写したり、誰もいない玉川の堤防で女性がクルマに乗り降りするマナーを撮ったりしていて。
――全然マナーの関係ない場所ですね(笑)。
サトウ:ホテルの前とかにしてほしいよ。出来てから初めて見たんだけど、恥ずかしかった。『フジ三太郎』のアニメ化は日本の外国映画社からも依頼があった。脚本は10本も出来ていたけど、物語だからね。でも、断らずにやっとけばよかったなあって(笑)。ちょっと使命感にとらわれすぎたのかな。
――『フジ三太郎』は、ちょうどバブル崩壊の1991年に26年間の連載を終えます。
サトウ:「あれが終わったあとから朝日新聞を読まなくなった」とたくさんの人に言われて、嬉しいような寂しいような。でもあんまり長くやると、ダレるのは分かっていた。長谷川町子さんは58歳でやめた。横山隆一さんは『フクちゃん』を60歳でやめた。僕は62歳でやめている。みんなから「早い」と言われた。でも僕は身体が弱いから、長く生きても66歳までだろうなと思っていた。やめるときは僕の家まで朝日新聞の社長が乗り込んできてね。「俺が社長を辞めるまでやめないでくれ」って。
――連載終了は自分から希望したんですか?
サトウ:もちろん。3年間くらい説得されたけど。結局最後は大パーティをやってくれて、森繁久彌さんから吉永さゆりさんまで、小学校の同窓生、八千草薫さんも来てくれた。
――吉永さゆりさんはサトウ先生の『夕日くん』のファンだったんですよね。
サトウ:そのパーティでは「これは僕の葬式だと思います」と言ったんだけど、挨拶に立った人が「休養されてから、また再開してほしい」と言ってね。阿呆かと思いながら聴いていた(笑)。軽いこと言ってるな、ここまでやってきてまたやれるもんか、って。隣にいた帝国ホテルの社長が「やったらだめですよ」と呟いてくれた。偉い人、分かってるよね。
――連載終了後に、新しい連載の話はなかったんですか?
サトウ:2社ほど有名なところから依頼が来たよ。ホテルのラウンジにずらっと幹部が揃って説得されたけれど、朝日新聞とは喧嘩して別れたわけじゃないし、何十年もやってきた恩義もあるので、他で描くことは非常に心苦しいと言ったら、分かりましたって諦めてくれた。
――数年前に『フジ三太郎』を電子書籍化されましたよね。
サトウ:J-CASTという会社が、最初は『フジ三太郎』を全部デジタル化するというんだよね。僕は物凄く反対して、せめて半分にしてくれと。今の人が見て笑えるのは、甘く見ても半分だ。「ぷふっ」と笑えるものは25%だ。それが理想的だ。
――8000本以上の全作品を読み直して、選んだ作品を自らデジタルで修正したとか。
サトウ:ええ、3か月間だっけ。毎日、気に入らない部分を、デジタルで描き直していました。80代の『蟹工船』だよね。デジタルブックができると、「フジ三太郎」の4コマの再連載が、広告として毎日、始まりました。この先、10年も続けるという。恥ずかしいので再連載は3年でやめてほしいと頼んだの。半世紀もすると、世相やニュースがかすんで蜘蛛の巣だらけ。ほんとうに笑えるものだけ残したいんです。
――僕は全巻買いましたよ。1ページに1作品で、すごく綺麗で読みやすいです。
サトウ:僕の孫が、いま20歳くらいかな、子供の頃から僕の漫画を面白いと言ってくれる。僕が、今、自分で見て「プフッ」と笑える作品は、たぶん永遠に残るよ。たぶん全体の25%ぐらいかなあ。「これが当時の漫画だよ」と言えるじゃないですか。そうすれば、僕のような4コマを描こうという漫画家もまた出てくるかもしれない。カートゥーンが復活し、盛んになってほしいというのが僕の願いです。今はほとんどコミックだから。日本漫画家協会賞は、去年から「コミック部門」と「カーツーン部門」に分かれたようだけれど、カートゥーン自体が少ないよね。あったとしても面白いものがあまり無いかも知れないし。
――新聞自体が衰退したので、新聞の4コマが世間で注目されることはもうなくなりましたね。
サトウ:僕は長谷川町子さんとは朝日新聞の朝刊と夕刊で連載していた関係で、対談なんかで知り合いになってね。ある時、横山泰三さんや小島功さんや加藤芳郎さん、岡部冬彦さんたちとゴルフに行った帰りに、車が長谷川町子さんの家の近くを通ったので、僕が寄りましょうと言った。みんな大賛成。僕が公衆電話から伺ったら、町子さんも「うれしい!」と。僕を除いてみんな初めてです。女王様の御殿みたいな豪邸に、我々のような下品なのが行けるわけがないと思っていたけれど、すごく歓迎してくれた。その日のことは忘れられない。あの頃は、漫画家はカトゥー二ストの時代だった。でもコミックの時代も、兆しを見せていた。
――確かに藤子不二雄A先生の『まんが道』を読むと、藤子不二雄の藤本先生も安孫子先生も、もともとは新聞に4コマ漫画を応募するところから始めてるんですよね。
サトウ:それは僕も知らなかったけど、彼もどちらかというと「こっち」側だったんだな。良い悪いではなく、時代が変わったんだよね。僕は文芸春秋漫画賞で審査員だったけど、あるときから急に、社員が集めてくる漫画がどれも「あっち」のほう。僕には選びようがない。ほかの偉い連中は何も言わなかったけれど、僕は「とてもこの中から選べない、僕を降ろしてくれ」と言って審査員を辞めた。その賞はそのあと2回やって結局なくなったから、あと2回我慢していれば打ち上げで飲めたのに、と後悔した(笑)。
――そうすると、「あっち」のほうの漫画である『島耕作』シリーズって読まれたことはありませんか?
サトウ:(首を振りながら)みなさん立派なのは分かっているけれど。第一、子供のころの物語系は「のらくろ」と「冒険ダン吉」だけだからね。
――現在の4コマ漫画で評価されているものってありますか? 例えば植田まさしさんの『かりあげくん』はどうですか?
サトウ:『かりあげくん』はいいんじゃない? 植田さんは僕が文藝春秋漫画賞で強く推した一人だと思うよ。
――『かりあげくん』はサトウ先生のお墨付きだったんですね!
サトウ:ついでに言うておきたいことがあるの。2年ほど前、テレビを見ていたら、ニューヨーク・タイムズの前女性社長のジャネット・L・ロビンソン氏の顔が写り、笑顔で言った。「これだけは間違いのないことよ。新聞は連載漫画が面白いとき、確実に発行部数が伸びたのよ」と。『サザエさん』はすごいが、『フジ三太郎』もいたことはいた。あのころ、朝日新聞の発行部数は800万だった。おお、おお……。ジャネットさまのお言葉は、日本新聞協会のエンブレムにしてほしいね。
対談後にはサインも! サトウ先生ありがとうございました
<取材・文/真実一郎>
【サトウサンペイ】
1929年大阪生まれ。京都工業専門学校(現・京都工芸繊維大)色染科卒。大丸心斎橋店宣伝部勤務を経て漫画家になる。1965年から27年間、朝日新聞に連載漫画『フジ三太郎』を描く。ほかに「週刊朝日」の『夕日くん』など連載や著書多数
サラリーマン、ブロガー。雑誌『週刊SPA!』、ウェブメディア「ハーバービジネスオンライン」などにて漫画、世相、アイドルを分析するコラムを連載。著書に『サラリーマン漫画の戦後史』(新書y)がある