――東京に出てきて『フジ三太郎』を始めるまでの経緯はどんな感じだったんですか?
サトウ:入社7年目頃に独立すると、小谷正一さんに紹介され、鎌倉の横山隆一さん邸を訪ねた。東京に来なくちゃダメと言われたと、親しかった大阪新聞の編集者に喋ると、産経新聞の連載を勧められて、これなら東京で描けると。『インスタントマダム』という4コマ漫画を連載したが、どうみてもつまらない漫画だったけど(笑)、4年間続けた。その連載中に朝日新聞から連載の依頼がきてね。産経新聞に恩も感じていたので、すごく悩んだ。
――産経新聞から朝日新聞に移籍するとなると、気を遣いますよね。ライバルですからね。
サトウ:恩義があるから断るのが武士だろうと思って、昔から母がお参りしている銀座の金光教教会で「どうしましょう」と、相談した。そうしたら老教会長が「恩は後で返したらえぇねん」って(笑)。それで朝日新聞で『フジ三太郎』の連載を始めた。
――最終的に恩は返せたんですか?
サトウ:産経新聞が夕刊フジというタブロイド判を出すことになったときに、編集長に相談され、漫画家6人の日替わり連載企画を提案した。漫画家もベテランから新人まで紹介して、結果的に割と成功したので、まあ恩は一応返せたかなと。そのときに僕が選んだ新人の一人が西村宗君で、その後に彼が産経新聞朝刊に『サラリ君』を長く連載することになるので、そういう意味でもいくらか恩返しできたんちゃう?
――当時って、朝日新聞はもともと『サザエさん』が連載されていて、他の新聞も家族を描いた4コマばかりで、サラリーマンを主人公にした新聞4コマは『フジ三太郎』が恐らく初めてだったと思うんです。その設定は朝日新聞側から求められたんですか?
サトウ:そうじゃない。もともとサラリーマン漫画を描く気なんてなかった。産経新聞では女性が主人公の漫画を描いていたので、今度は男性にして、ニュースとか世相も描こうと思った。主人公を魚屋さんとか、八百屋さんに特定すると、職業知識がなくて、おそらく3日も続かない。会社に行く普通のサラリーマンを描けば、満員電車の話とか、いちおう大丸だって係長や課長もいたよな。だいたいネクタイをしていたな。それに世相、流行なども描いていたけれど、いつの間にか「サラリーマン漫画」と言われるようになるんだな。もしかしたら初代かな。
――海外では『フジ三太郎』のようにサラリーマンを主人公にした有名な4コマ漫画って存在するんですか?
サトウ:さあ、どうかな。新聞の漫画はそもそも流行、ニュース、世事そのものが主人公だから。以前、ワシントンポストからインタビューされた時、僕は「エディトリアル・カートゥーニスト」という肩書で紹介された。新聞社の中に机を置いていなくても、世相や流行をエディトリアル(編集)して漫画を描いている人はそう呼ばれるんだなと納得した。
――1965年から始まった『フジ三太郎』はスゴく話題になって、他の新聞も追随してサラリーマン4コマの連載を始めるんですよね。
サトウ:『フジ三太郎』を描き始めて2~3年目した頃に、朝日新聞で「サトウサンペイが描くサラリーマンもの」という記事が書かれてね。作者は「人気ものである」と。僕は腹が立った。「僕を漫画作家と認めていないのか」と、その記事を書いた記者の当時の上司、高木四郎さんという部長か局次長に電話で抗議した。
――え、なぜ腹が立ったんですか? 褒められてますよね……。
サトウ:「人気もの」は「馬鹿もの」とか「ふざけもの」とかの系列語だ。なんで僕が人気ものやねん、礼儀知らずが漫画を低くみてるって。<サラリーマンもの>という呼び方も、<妖怪もの>とか<恋愛もの>みたいで。<もの>がつくのは「物語」があるんだよね。サラリーマンが出てくる「物語」なら分かるけど、4コマ漫画に<〇〇もの>なんてつけられないだろう、と考えていた。ピュア―で真面目で、大和魂だったから。ほんと。
――当時って、源氏鶏太さんのサラリーマン小説が広く読まれていたり、東宝の無責任シリーズがヒットしていたりして、<サラリーマンもの>が全盛期だったんですよね。
サトウ:その頃は漫画もストーリーもの、つまり「コミック」がある程度出ていた頃だった。僕らの頃は長谷川町子の『サザエさん』にしろ、横山隆一の『フクちゃん』にしろ、みんな4コマで描いてきてるから。4コマは「何もの」にもならないんだよ。『サザエさん』を<家族もの>なんて言わなかったし。僕らの描いていた漫画は「本格漫画」、ストーリーがあるのは「物語漫画」。そう思っていた。別にコミックに反対してるわけじゃないけど、我々のほうはユーモアとウィットと風刺。その3つを旨としてやっていた。それが「漫画家」だと僕は思っていた。
――風刺って、さじ加減がスゴく難しいですよね。
サトウ:とにかくニュースや流行や現象は、すぐその日に描けるものと、すぐ描いてはわからないものがある。世の中の50%ぐらいの人に知られるまで待つこともある。70%の人に知られてから描いたのでは古い! と言われる。日航機墜落事件の時は、これだけは描いちゃいけない、その日に考えた案を2か月待って描いたら、文句がくるどころか遺族の会が会報の表紙に使いたいと言ってくれた。エディトリアルはこんなことまで考えないといけない。それなりのしんどさと楽しみもある。
――毎朝800万人が読むというプレッシャーって物凄かったでしょうね。
サトウ:問題のありそうなときは、すれすれのカーブをねらった。「右翼からも左翼からも文句を言われないサンペイさん」と言われたときもあるんです。(笑)。
――海外の人からすると、『フジ三太郎』って日本のサラリーマン研究の恰好の素材だったと思います。
サトウ:大丸の常務の娘さんがハーバード大を卒業して、同級生のユダヤ系美人と来日した時、その美人が僕に会いたいというので、有楽町で3人で昼飯を食べた。その時に、冊子の形に整えた卒論「日本のサラリーマン」をくれた。中には植田まさしさんの4コマが3、4点と、『フジ三太郎』が何十点も引用されて論じられていた。外国人から見ると、論文の対象になるような何かがあったのかもしれないね。自分の漫画のそばの英語は、どうにかわかったが、以外は全ページ不明だろうと、いまだに読んだことがない。
そういえば<サラリーマンもの>と書かれて、抗議した高木四郎さんも、定年後はハイデルベルク大に留学され、日本語講師を頼まれて、その教科書に『フジ三太郎』と『夕日くん』を使ってくださったんだよね。
――今読むと結構エッチな話がたくさんありましたよね。今の新聞に載ったら炎上したかもしれません。
サトウ:エッチなことはしょっちゅう描いていたけれど、三太郎は法を犯すようなことはしてないよ(笑)。最初は夕刊での連載だったから、このくらいは大丈夫だろうと思って描いた。怒っていた人もいっぱいいたかもしれない。でも別に文句も来なかった。特に女性問題がうるさくなってきてからは気を付けて描いていたから。僕のブログ見るとわかるけれど、女性のファンもいっぱいいたよ。
――女性の管理職が登場するのも、時代的に早かったです。北原部長という女性が登場したのは、男女雇用機会均等法よりずいぶん前でした。
サトウ:僕は全日空のモニター会員で、そこに北野さんという女性部長がいたんだよ。だからもう女性の部長を漫画に出してもおかしくないだろうと思って。名前は北原部長に変えてね。でも一回だけ間違えて本名で描いちゃった(笑)。もっと違う名前にしておけばよかったな。
――三太郎を連載するにあたって、実際にサラリーマンの生態を観察したりすることはあったんですか?
サトウ:観察したのは、日々の自分自身だよ。大丸7年間のダメ社員の経験も大きいか。宣伝課の仕事は新聞広告のコピーとレイアウト。それはうまかったと思うけれど。
――僕にとっては『フジ三太郎』が子供の頃から代表的なサラリーマン像だったので、それがサトウ先生の個人的なサラリーマン体験だけから生み出されていたというのは新鮮な驚きです。
サトウ:サラリーマンのことをよく知らないので、フジ三太郎を「サラリーマン漫画」っていわれても「ええ?」って思ったりしたね。僕は遅刻ばかりしていたし、勤務時間中に外に出て酔っぱらうし、大丸のショーウインドウに酔ってションベンして、保安部の人につかまって、それでも許されていた人だから(笑)。
――そういうサラリーマンらしくないサラリーマンだったからこそ、7年間だけであっても吟遊詩人的に深く周囲を観察できたんでしょうね。