安東、椛島も学生時代を過ごしたであろう長崎大学の瓊林会館
この連載で何度も言及してきたように、彼らの運動は、「40年以上にわたって、同じ人々が同じ情熱で継続してきた」という点に特色がある。40年前の学生運動従事者が未だに運動家として活動している様子は、前回検証した通りだ。
長年にわたって同じ人々が同じ運動を継続している点を直視すれば、「惰性となりゆきで継続しているだけだ」とは考え難い。そうにしては、あまりにも見事な連携だ。やはり、「彼らの情熱を支え続け、領導する立場にいる何物かがあるはずだ」と考える方が自然だろう。
そして安東巌こそが、「彼らの情熱を支え続け、領導する立場にいる何物か」と比定せざるをえないと考えるのが、本連載の考えだ。
その根拠を一つずつ示していこう。
前回引用した、安東巌自身の著作『わが思いひたぶるに』に掲載された彼の経歴通り、安東は昭和14年すなわち1939年に生まれている。昭和14年といえば、盧溝橋事件の2年後。平沼騏一郎内閣の誕生や、ノモンハン事件など、「ポイントオブノーリターン」踏み越えた日本が、破滅への一歩をさらに前に進めた年でもある。しかし、まだ太平洋戦争は始まってもいない。
一方で、我々が追いかけてきた「一群の人々」の主要メンバーたちは、皆、戦後生まれだ。日本会議の事務総長であり日本青年協議会の会長である椛島有三は、昭和20年生まれ。同じく日本青年協議会のメンバーであり、現在、安倍首相の首相補佐官を務める衛藤晟一は昭和22年生まれ。「日本政策研究センター」を率いる伊藤哲夫も昭和22年生まれだ。ちなみに、運動の中では椛島有三や伊藤哲夫より序列の低い百地章と高橋史朗はそれぞれ、昭和21年、昭和25年に生まれている。
このように、彼らの運動の主要メンバーたちは、昭和20年から25年までに生まれた人々が多く、世代でいえば、団塊世代に相当する。いうまでもなく団塊の世代は、70年安保運動を担った世代だ。これまで見てきたように椛島有三たちもその世代の若者として時代の渦に身を投じた。
が、安東巌は団塊世代ではない。むしろ、その上の、60年安保世代に近い。国会前のデモで死亡し、「60年安保」の代名詞ともいうべき存在となった樺美智子は、昭和12年生まれ。安東と2つしか違わない。本来、安東巌は、70年安保ではなく、60年安保運動に参加していたはずの世代なのだ。
60年安保世代の安東巌。70年安保世代の椛島有三たち。この世代の開きは、大きい。年功序列意識の濃い古い世代の人々がそうであるように、彼らにとってもこの開きは如何ともし難いものに違いない。こうも世代が隔絶すると、安東巌はもはや居ながらにして「先輩」だ。
しかしなぜ、安東巌は世代が一つ下の椛島有三たちと行動を共にするようになったのか?