「神の子」の学生運動――シリーズ【草の根保守の蠢動 第29回】
「神の子」、安東巌
このカセットに、谷口雅春本人が安東巌について言及する様子が記録されている。
「その……昭和38年の12月7日に、福岡の市民会館で、生長の家の講習会がありました時に、あんどういわほさんという24歳の方がねぇ」
谷口は「あんどういわほ」と発声しているが、「昭和38年」に「24歳」であるならば、昭和14年生まれの安東巌の経歴にぴったりと符合する。
谷口は続ける。
「この、あんどういわほさんは、心臓弁膜症の一種で、肺動脈弁狭窄症という、難しい名前、肺動脈弁狭窄症と言われてですね、しまいに手も足も動かなくなって廃人同様の生活を7年間もしておった、と。それが、こう、癒された実例がね、立ってお話になった。ちょっとその体験談の筆記を、朗読してみます」
長くなるので、谷口雅春の朗読する「安東巌の体験談」をすべて記載するわけにはいかない。その要約だけを解説していこう。
谷口雅春が語った「安東巌」に起きた奇跡
当時の安東巌は朝日新聞の読者だったことは、2016年の現在、彼が率いる「一群の人々」が躍起になって朝日新聞を攻撃していることを考え合わせるとなんとも皮肉なことだ。念のため調査してみると、昭和37年6月1日朝日新聞夕刊(西部本社版)に、果たして安東巌の投書は実際に掲載されていた。
やはり、安東巌は証言通り、朝日に投書していた。
「病友会を」との見出しで始まる彼の投書は、「心臓が悪く病床生活七年、社会の移り変わりは激しく一人取り残されているような気持ちです」という自己紹介で始まる。そして、「長い病床生活を送っている皆さんとはげまし合うような会を作れないものでしょうか。」との呼びかに繋がる。
病床にありながらも同病の人士に「病友会」なる組織の設立を呼びかける安東巌の様子は、後に「稀代のオルガナイザー」「天才的組織人」と評されるようになる後年の彼の姿を彷彿とさせる。しかしあくまでもこの投書だけに限って言えば、病で青春を空費せざるをえなかった青年による、悲痛な叫びでしかない。
その叫びが届いたのか、この投書は大きな反響を呼び、励ましの手紙が安東巌のもとにたくさん届いた。だが、その中に一通、風変わりなハガキが混じっていた。
「『病友会』の結成より、『光明会』の結成こそ、貴殿の使命である」
と、そのハガキにはある。「光明」とは、「生長の家」がその教えの体系を表現するときに使用する言葉だ。同じ差出人から『月刊 生長の家』も届けられてきた。
安東巌は届いた『月刊生長の家』を貪るように読んだという。初めて「生長の家」の教えに触れた彼は、谷口雅春の説く教義に魅了されていく。雑誌に飽き足らなくなった彼は、谷口雅春の主著であり「生長の家」の根本経典である『生命の実相』を読むようになり、ますますその教えの虜になった。『生命の実相』は「人間神の子、本来、病なし」と説く。安東はそうした一節を繰り返し繰り返し、一所懸命に唱えた。やがて、「人間神の子、本来、病なし」という谷口雅春の教えを心底から「悟った」と言える境地に達した。その途端、病状は軽くなり、上半身はどうにか動くようになった。しかし下半身は、未だ動かない。
そこで、生長の家の地方講師(※1) から個人指導を受けることとした。この地方講師からは「親への感謝がなければ病気など癒えない」ときつく指導され、安東巌はこれまで母親を恨んでいたことを懺悔し、親への感謝を念じるようになる。すると、たちまち病は癒え、立ち歩けるまでに回復し、今や「生長の家」青年部の活動に邁進できるほどになった。
かくて、安東巌は「生長の家」と出会い、「生長の家」の教えで病を癒したのだ。
これが、谷口雅春が言及した「安東巌」のエピソードである。
|
|
『日本会議の研究』 「右傾化」の淵源はどこなのか?「日本会議」とは何なのか?
|
ハッシュタグ

