本来であれば60年安保世代であるはずの安東巌は、高校2年生の時、大病を発した。病名は、肺動脈弁狭窄症。心臓弁膜症の一種で、重度の場合は死に至らぬとも限らない重い病気だ。そのため彼は高校を休学し、病床についた。時に、昭和31年。石原慎太郎原作の『太陽の季節』が映画化され、弟・裕次郎がデビューしたあの年だ。また、この昭和31年ごろからいわゆる「高度経済成長期」がスタートする。時代は加速しながら前に進もうとしていた。そんな時期に、彼は病に伏せたのだ。当然、大学進学など、諦めるしかない。
病床についた彼が、何を考え、どのような生活を送ったのか。
その様子を極めて詳細に語り、その記録を残した人物がいる。
誰あろう、生長の家創始者・谷口雅春だ。
谷口雅春は、その生涯において、膨大な著作を残した。と、同時に、全国各地で講演活動を行った。彼の講演は人気を呼び、開催されるたびに大入りとなった。新興宗教の創始者による講演会には珍しく、谷口の講演には「生長の家」信徒のみならず信仰を持たない人まで多数参加し、彼の独特の語り口は人々を魅了した。その講演の一つを収録し、のちに、「生長の家」教団が発売したのが、「生命の実相講義」だ。
このカセットに、谷口雅春本人が安東巌について言及する様子が記録されている。
「その……昭和38年の12月7日に、福岡の市民会館で、生長の家の講習会がありました時に、あんどういわほさんという24歳の方がねぇ」
谷口は「あんどういわほ」と発声しているが、「昭和38年」に「24歳」であるならば、昭和14年生まれの安東巌の経歴にぴったりと符合する。
谷口は続ける。
「この、あんどういわほさんは、心臓弁膜症の一種で、肺動脈弁狭窄症という、難しい名前、肺動脈弁狭窄症と言われてですね、しまいに手も足も動かなくなって廃人同様の生活を7年間もしておった、と。それが、こう、癒された実例がね、立ってお話になった。ちょっとその体験談の筆記を、朗読してみます」
長くなるので、谷口雅春の朗読する「安東巌の体験談」をすべて記載するわけにはいかない。その要約だけを解説していこう。
肺動脈弁狭窄症の病状はますます悪くなる一方だった。ついには、長く病床に伏したためか手足も硬直し動かなくなった。家が貧しかったので、母親は、苦しい顔をしている時しか薬を買ってくれないし、心配もしてくれない。
そんな状態のまま病床生活は7年目を迎えた。昭和31年からのこの7年間は、ちょうど60年安保闘争のうねりと重なる。安東巌の同級生たちは次々と大学に進んで行った。中には、安保闘争に参加した友人もいたであろう。さら歳月は進み、かつての同級生たちの大学卒業や就職決定などの動静が彼の元に届くようになる。そういう話を聞くたびに、安東巌は、病床から抜け出せないのは満足な医療を与えてくれない母親せいだと、母を恨むようになった。
そんな彼に転機が訪れる。
あまりにも惨めな自分の境遇を世の中に訴えたい。本来自分は優秀な高校生であった。今頃、かつての同級生と同じように、いや、あいつら以上の活躍をしているはずだ。そんな自分が病のせいで今、寝込んでいる。きっと同じような苦しみを味わう人々はいるはずだ。そういう人々と繋がりたい。そんな一心で、彼は朝日新聞に投書した。
当時の安東巌は朝日新聞の読者だったことは、2016年の現在、彼が率いる「一群の人々」が躍起になって朝日新聞を攻撃していることを考え合わせるとなんとも皮肉なことだ。念のため調査してみると、昭和37年6月1日朝日新聞夕刊(西部本社版)に、果たして安東巌の投書は実際に掲載されていた。
やはり、安東巌は証言通り、朝日に投書していた。
「病友会を」との見出しで始まる彼の投書は、「心臓が悪く病床生活七年、社会の移り変わりは激しく一人取り残されているような気持ちです」という自己紹介で始まる。そして、「長い病床生活を送っている皆さんとはげまし合うような会を作れないものでしょうか。」との呼びかに繋がる。
病床にありながらも同病の人士に「病友会」なる組織の設立を呼びかける安東巌の様子は、後に「稀代のオルガナイザー」「天才的組織人」と評されるようになる後年の彼の姿を彷彿とさせる。しかしあくまでもこの投書だけに限って言えば、病で青春を空費せざるをえなかった青年による、悲痛な叫びでしかない。
その叫びが届いたのか、この投書は大きな反響を呼び、励ましの手紙が安東巌のもとにたくさん届いた。だが、その中に一通、風変わりなハガキが混じっていた。
「『病友会』の結成より、『光明会』の結成こそ、貴殿の使命である」
と、そのハガキにはある。「光明」とは、「生長の家」がその教えの体系を表現するときに使用する言葉だ。同じ差出人から『月刊 生長の家』も届けられてきた。
安東巌は届いた『月刊生長の家』を貪るように読んだという。初めて「生長の家」の教えに触れた彼は、谷口雅春の説く教義に魅了されていく。雑誌に飽き足らなくなった彼は、谷口雅春の主著であり「生長の家」の根本経典である『生命の実相』を読むようになり、ますますその教えの虜になった。『生命の実相』は「人間神の子、本来、病なし」と説く。安東はそうした一節を繰り返し繰り返し、一所懸命に唱えた。やがて、「人間神の子、本来、病なし」という谷口雅春の教えを心底から「悟った」と言える境地に達した。その途端、病状は軽くなり、上半身はどうにか動くようになった。しかし下半身は、未だ動かない。
そこで、生長の家の地方講師(※1) から個人指導を受けることとした。この地方講師からは「親への感謝がなければ病気など癒えない」ときつく指導され、安東巌はこれまで母親を恨んでいたことを懺悔し、親への感謝を念じるようになる。すると、たちまち病は癒え、立ち歩けるまでに回復し、今や「生長の家」青年部の活動に邁進できるほどになった。
かくて、安東巌は「生長の家」と出会い、「生長の家」の教えで病を癒したのだ。
これが、谷口雅春が言及した「安東巌」のエピソードである。