素朴な「郷土愛」を利用される信者たち――シリーズ【草の根保守の蠢動】特別企画「宗教と政治の交わるところ 第二回
2015.07.12
『宗教と政治の転轍点―保守合同と政教一致の宗教社会学―』と題された同書は、「なぜ宗教は政治活動を行うのか」「なぜ政治は宗教を利用するのか」「多数の宗教団体が集まる日本会議とはいかなる組織なのか」といった問いに、宗教社会学の立場から取り組んでいる。
塚田氏が学術研究として取り組んだこれらの問いは、本連載がいま取り組んでいるものと、まさに同じだ。
そこで、時をほぼ同じくして筆者と同じ課題に取り組んでおられる塚田氏をお招きし、「なぜ宗教と政治は惹かれ合うのか」「日本会議が多数の宗教団体を引き寄せるのはなぜか」を語り合うこととした。
前回(前編・中編・後編)までは、主に日本における宗教情報リテラシーの問題が生み出す「宗教の政治進出」を語ることの難しさに焦点を当ててお送りした。
第2回となる今回は、本連載の核心である「日本会議」について、塚田氏と筆者がどう見ているかについて語っていきたい。
菅野:それでも、僕はやっぱり「アメリカの福音派みたいなことをやろうとしている連中が日本にもいるぞ」と「日本会議の中枢はまさにそれだぞ」ということを書きたい。極めて本寸法の教科書通りの「反知性主義」な傾向をもった人々が、日本会議の中枢にいるということを明らかにしたい。ただ、アメリカの宗教右翼との最大の違いは、日本の場合は自分のところの信者の数たのみでやってるわけではないところ。他の宗教の信者を使ってやっているところだと思います。だから「宗教右翼」って言葉を使うとどうしても、アメリカの福音派みたいなことを想起しちゃうんで、「右翼宗教」と呼ぼうかなと。
「右翼的な主張をする宗教団体」を「宗教右翼」というのなら、「宗教を経由して物事を主張する右翼」を「右翼宗教」と呼ぼうかなと。日本会議の中枢たる日本青年協議会は、警察資料的には右翼団体ですしね。
塚田:つまり、宗教の側から言うならば、使われていると?
菅野:そうです。使われている。だから宗教の政治進出というよりも、特殊な思想をもった極右団体が宗教を利用して、宗教をテコにして政治を動かしてる。
塚田:そのまさに中心勢力を追究されているのが菅野さんの連載ですよね。その点で言えば、私の研究のテーマはそこに合同して参画する宗教団体側からのアプローチです。佛所護念会教団、解脱会、崇教真光、念法眞教など。参加してくる団体には当然ながらいろんな温度差がある。
菅野:そうやって個別の団体を一つずつ説明する記述って、いままでなかったですよね。
塚田:もちろん、上杉聡さんとか、俵義文さんとかの日本会議に関するこれまでの論考を読んできたわけですけど、読んだと同時に、「これじゃないな」って思ったわけですね。まあそれも無理がないなと。だからやっぱり宗教研究者としてきちんとおさえるところはおさえて書きたいなと。そうじゃないと「宗教右派大集合」で片づけられてしまう。
菅野:ご著書のなかで、新生佛教教団とか念法眞教とか丁寧に解説してくださってる。じゃ、次に出てくる議論としては、「なんでこんなにバラエティ溢れる人たちが、同じ所にいて同じ方向を向けるの?」って話ですよね。
塚田:そこなんですよね。そこが難しい。一応、本書では、カッコ付きの「『正統』的宗教ナショナリズムの求心性」という言葉である種、大枠的に論じた形です。じゃ、それって何なの?というと、実はけっこう難しい。完全に皇室崇敬一本かと言うと、必ずしもそうとも言いきれない。皇室崇敬、伝統、愛国、反共、国防、復古、保守、教育、道徳、家族観、経済繁栄などきわめて多項的な構成になっているように思えます。逆に言えばそうした構成が、背景や教え、主義主張に多様性があっても、共鳴して大同団結できてしまうメカニズムを成立させている。それはまた、本書にも書いた「はたして国家神道の復興と言えるのか」という問題ともつながります。
菅野:第2章の導入部で、島薗進先生の国家神道論を検討しておられる部分ですね。
塚田:師匠の言ったことに全部従っていても意味がありません。島薗先生の国家神道の捉え方や問題意識自体はわかるが、今起こっていることが「国家神道の復活」なり「存続」というのは正確ではないのではないか? それは、「運動」の言葉だと思うんですね。批判する際に、「連中は、国家神道を復活させようとしてる」というための言葉だと思うんです。私はその論じ方はしていません。いやむしろ、もっとラディカルに「国家神道の復興」「存続」ですらないことを主張し、目指しているのでは、と書いたと言えます。
菅野:「国家神道の復興や存続ですらない」というのはおっしゃる通りですね。これは、先生の共編著である『宗教と社会のフロンティア―宗教社会学からみる現代日本―』(勁草書房、2012年)という本で頂戴した気づきなんですけども、確かに、靖国神社や日本会議がいってることは、「宗教として国家が認めろ・関与しろ」なので、「神道は宗教にあらず」というタテマエに立脚していた戦前の国家神道とは全然違うものですよね。先生も書いてらっしゃるように、この動きの担い手を神社本庁や靖国神社だけに偏り気味で書いてしまうとこれもまたおかしい。かといって、国民が共有する広範な皇室崇敬の念に求めてしまっても漠然としちゃう。
塚田:「国民の天皇」というところまで行ってしまうと、急に国民性論みたいなところになっちゃいますしね。その意味では、今回の日本会議の研究の意義は、その中間項的な位置に保守合同運動として、草の根の民衆宗教・新宗教や諸団体が集まっていることを具体的に提示したことだと言えます。でも、集まってきているけど、やっぱりその求心性とは、ややモヤモヤとしています。まあ、「日本教」みたいな話も出てしまいそうですけど。
菅野:そうなんです。「日本教」の話にならざるをえない。そして、その日本教のイベントプロデューサーは、日本青年協議会なんじゃないのかというのが、僕のテーマです。
塚田:そここそがやっぱり、菅野さんの調査と連載で詳しく明らかにされたところだと思います。本書では、そこを焦点化したり、そこまで到達することはできませんでした。せいぜいほのめかす感じです。諸団体の事務局が椛島有三氏であることは繰り返し書きましたが。それが精一杯でした。
先ほどの話に戻りますと、多くの宗教団体が日本会議に集まっているわけですが、活動に関わる人、行事や署名等に動員される人っていうのは末端の信者・会員さんが多く含まれると言えましょう。その人たちと、中央とか日本会議の事務方で考えていることとは、はたして一致しているのでしょうか。よくわかってはいない可能性もある。参集する教団には多様性がありますし、それぞれの教えとそのまんま合致するものではないですよね、結局のところは。
菅野:そうなんですよね。例えば佛所護念会。教主の関口一家がどうのこうのという話は別として、信徒団体として見た時に、佛所護念会の信徒さんたちって、昔よくいた愛国おじさん・おばさんの集まりみたいな感じですよね、皇居の清掃に行ってみたりとかね。
塚田:郷土愛、愛郷心ですよね。基本的には。
菅野:そう郷土愛。本当に素朴な郷土愛。ナショナリズムというよりパトリオティズムに近い。
塚田:そのパトリオティズムなどを軸になんとなく日本会議にいろんな宗教団体が参集できてしまっている。私は本書で言及した教団に実際にいくつも行っていますし、個人的には本当に愛着があります。しかしよくみていると、それぞれの教団が日常的に信徒に教えている・説いているようなところと、日本会議が政治的に実現しようとしていること、あるいは選挙に推薦候補を立てる時に条件として設けているようなことが、全く同じとは思えない。一般信徒のみなさんは、素朴なパトリオティズムや皇室崇敬、伝統の尊重、宗教心や道徳の尊重姿勢に基づいて参加したり協力したりしているのだろうけど、その参加しているものの今進もうとしている道がどんなものであるか、はたしてわかっていますか? それは教祖がめざしたものですか?と問いかけたいですね。むしろ私が「原理主義」なのかと思うときもある(笑)。
※次回『誰も語らなかった「通史としての戦後宗教界」』に続く
<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>
塚田穂高●1980年、長野市生。國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所助教。専門は宗教社会学で、新宗教運動・政教問題・カルト問題などの研究に取り組む。ちなみに、取材活動などがあるため残念ながら近影はNGとのこと。Twitter ID:@hotaka_tsukada
本連載「草の根保守の蠢動」がスタートした直後、一冊の学術書が出版された。
著者は、國學院大學研究開発推進機構日本文化研究所の助教・塚田穂高(つかだほたか)氏。
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