「安倍談話」の有識者会議座長代理の変節から浮かぶ「圧力」の歴史――シリーズ【草の根保守の蠢動 第7回】
2015.04.13
今年2015年は敗戦後70年。安倍政権は「戦後70年安倍談話」を出す予定で、2月には有識者会議を設置した。もっぱらの注目は、「70年談話『侵略』の一言が、どのように使われるか?」に集まっている。
http://www.sankei.com/politics/news/150309/plt1503090018-n1.html)。
にもかかわらず、北岡座長代理は、4月10日、『植民地支配と侵略』や『おわび』の踏襲にこだわる必要はないと、全く逆の考え示すに至った(http://mainichi.jp/select/news/m20150411k0000m010146000c.html)。
この間、わずか1か月。
確かに、3月の「日本が侵略したと言ってほしい」という北岡座長代理の見解に対しては、報道直後から各方面からの反発が表明されていた。中でもとりわけ機敏に反応したのは、やはり日本会議グループだろう。
日本会議の代表委員である長谷川三千子・埼玉大学名誉教授は、北岡座長代理の「侵略したと言ってほしい」見解が報道された直後の3月19日、産経新聞の「正論」欄に寄稿し、名指しで北岡伸一を強く批判している(http://www.sankei.com/column/news/150317/clm1503170001-n1.html)。
それにしても、いかに新聞をはじめとするメディアに北岡伸一の見解に対する批判記事があふれたとはいえ、わずか1か月で見解を180度変更するのはいかにも異様だ。
一体、北岡伸一になにがあったのか?
そもそも「終戦70年談話」が必要とされる背景には、これまで節目節目で、あの戦争に対する見解を首相談話や国会決議で発表してきたという慣習がある。
とりわけ大きな注目を集めたのは20年前の村山内閣時代の「戦後50年決議」だろう。
20年前の1995年は、敗戦後50周年、つまり半世紀の節目にあたった。半世紀の節目での国会決議や首相談話はそれまでのものより、記念的なものになるはずだ。
しかし、「敗戦後50年」という節目の年1995年は、もう一つの特徴があった。
社会党・村山富市総理大臣の存在だ。
1994年6月に発足した村山内閣は、発足直後に、「日米安保反対」「日の丸君が代反対」「自衛隊は違憲」という従来の社会党の党是を連立維持のため放棄し、「日米安保も日の丸君が代も自衛隊も全部容認」と180度の路線変更を表明する。当然のことながら、社会党を支えつづけてきた労働組合などの護憲派市民団体は、この路線変更に強固に反発した。
そんな情勢のなか、村山内閣は1995年の敗戦後50周年を迎える。
支持基盤から愛想をつかされつつある社会党として、是が非でも実現しなければいけなかったのが、連立結成時に自民党と合意した「あの戦争は侵略戦争であった」と認める「戦後50決議」の採択だ。
しかし今度は自民党の内部から反発が出る。自民党内には「あの戦争は侵略戦争ではない」という意見が根強い。
この反対意見を後押ししたのが、ほかならぬ、椛島有三率いる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」だった。
日本青年協議会のWEBサイト(http://www.seikyou.org/nihonkyogikai.html)には、「終戦五十年に際し、国会謝罪決議反対五百万署名運動を展開」と当時の活動の様子が控えめな表現で残されている。
しかし彼らの運動はこれだけではなかった。
彼らはこの時も、各都道府県議会で「戦没者追悼意見書」を採択させ、「謝罪決議反対議員連盟」を結成するという、この連載の読者であればおなじみの「いつもの方法」で自民党に圧力をかる。
そして運動開始後わずか1年足らずで500万筆の「謝罪決議に反対する署名」を集めることに成功し、1995年3月、国会に請願することに成功する(※1)。
かくて、社会党を支える護憲派市民団体 対 自民党を支える保守派市民団体の様相を呈しつつ、「50年決議」が採択される予定の国会が開かれた。
当時の参院自民党の幹事長は村上正邦。
前回の原稿では、初出馬で落選の憂き目にあっていた村上正邦が、「元号法」制定運動を椛島有三ら日本青年協議会とともに「国民運動」として展開し、法制化にこぎつけた様子をお伝えした。
それから20年。
村上正邦は「参院の法王」と呼ばれるまでに登りつめていた。彼の政治力の源泉は、選挙のたびに圧倒的な得票をもたらしてくれる「日本を守る会」と「日本を守る国民会議」。
当然のことながら、村上正邦は、「戦後50年不戦決議」反対派の急先鋒となる。
国会決議は、衆参両院のそれぞれで全会一致をもって可決されるのが通例だ。
連立政権としては、参院幹事長の村上正邦をどうしても納得させる必要があった。自民党5役は村上正邦を除き全員が決議案に賛成を表明しているものの、参院幹事長の村上正邦が納得しないかぎり、参院での可決はおぼつかない。
1995年6月6日。
「50年決議」文案作成作業は大詰めを迎えていた。
「侵略」の一言をめぐるこの日の緊迫した情勢を、魚住昭『証言 村上正邦』の記述に従って振り返ってみよう(※2)。
自民党政調会長・加藤紘一や自治大臣・野中広務が中心となり、自民党執行部が進める文案作成作業は、社会党の「侵略戦争である」という見解を受け入れる形で進められていた。
当然、これまで大規模な反対運動を展開してきた日本青年協議会のメンバーたちは受け入れることができない。最終文案作成期日のこの日、椛島有三と中川八洋を筆頭に50人ほどの「民族派の幹部」が参院自民党幹事長室に詰めかけた。
村上正邦は、衆院の役員室で加藤紘一が作成する決議案をもって、椛島有三たちが待ち受ける参院幹事長室に持ち帰る。椛島有三らは「これではだめだ」「こんな文案は受け入れられない」と文案をつきかえし、村上正邦はまた、衆院役員室に文案修正を求める…….そんな作業が延々繰り返され、深夜を迎えた。
村上正邦経由で日本青年協議会の強固な反対意見を受けた加藤紘一は、「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に想いをいたし」という一文をいれ、植民地支配や侵略行為の主体を「世界史全体で繰り広げられた一般論」として曖昧にするという妥協案を口頭で示した。
この口頭発表案なら行為主体は「日本」と限定されなくなる。これであれば日本青年協議会を納得させられると執行部と内容の合意をし、村上は参院幹事長室に戻って椛島たちを納得させた。
だが、この取引は加藤紘一と野中広務のコンビが一枚上手であった。
執行部としては連立を維持するため、なんとしても社会党の見解どおり国会決議で「日本の侵略行為」を言明する必要がある。
同日深夜、報道各社や各政党向けに発表された「自社さ連立政権最終文案」のペーパーに記述された内容は、先ほどの口頭発表文案と、違う文案だったのだ。
●村上正邦に伝えられた口頭発表文案の内容
-------------------------
「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行った行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」
-------------------------
●正式文案として書面発表された内容
-------------------------
「また、世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。」
-------------------------
自民党執行部は、村上正邦に伝えた口頭発表案に、「こうした」の四文字を加えることにより、「植民地支配」「侵略行為」の行為主体にも「我が国」が含まれると明記することに成功する。
つまり自民党執行部は、口頭発表文案と書面発表文案で違う内容を提示することで、村上正邦と日本青年協議会を欺いたのだ。
この詐術を知った椛島有三や中川八洋は当然のごとく激怒した。
公式文案発表の時点でまだ参院幹事長室に残っていた彼らは、「我々をペテンにかけた」と村上正邦のネクタイを掴んで怒鳴り散らしたという。
メンツを失った村上は、椛島有三たちに、「衆院で可決させるが参院では絶対否決させる」と約束し、どうにかこうにか彼らの怒りを鎮めた。
このような経緯で、村山内閣時の「戦後50年決議」は、衆院可決/参院否決という国会決議としては異例の結末を迎えたのだった。
以上、魚住昭の「証言 村上正邦」の記述に基づき、日本青年協議会による「50年決議」への圧力を振り返った。
注目すべきは、国会決議の文案作成の現場である参院自民党幹事長室を日本青年協議会のメンバーが占拠し、「参院の法王」ともよばれつつあった当時の参院最高権力者・村上正邦をも恫喝して、圧力を加えていたという点だろう。そしてその圧力の結果、「両院での全会一致」という日本の議会制民主主義の慣習がいとも簡単に踏みにじられたという点だ。
この連載が進むにつれ明らかにしていくが、現在の安倍政権の周囲には、「首相補佐官」「秘書」「有識者会議のメンバー」の形で、日本青年協議会のメンバーが多数存在している。そしてそのメンバーは20年前に村上正邦を恫喝し、自民党に圧力をかけたメンバーとほぼ顔ぶれが同じだ。
そんな状況下で、「安倍首相には侵略戦争であったと言ってほしい」と述べた北岡伸一。
彼の周囲にひしめく「20年前と同じメンツ」を考えるとき、彼が相当の圧力――魚住昭著『証言 村上正邦』で描かれていた、“参院の法王”にさえ「ネクタイを掴んで」「怒鳴り散らす」ほどの圧力――を受けたと考えるのは、筆者の想像しすぎなのかもしれない。しかし、北岡伸一の1か月足らずでの変節を考えた時、20年前のその光景が筆者の脳裏に思い浮かんだのである。
むろん、北岡伸一は、集団的自衛権に関する有識者会議である「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」の座長代理として、あっさりと集団的自衛権を認めてしまうほど(http://www.asahi.com/articles/ASG5M763GG5MUTFK018.html)、「右寄り」な側面も持ち合わせている。
しかし、北岡伸一の3月時点での見解は、歴史学者としての経歴も持つ彼の学者と良心が言わしめたものだと信じたい。
その北岡伸一がわずか一か月で、変節した。
彼の早すぎる変節は、「一群の人々」(※3) によって行く末を左右されつつあるこの国の将来を象徴するかのように思えてならないのだ。
(文中敬称略)
[参照]
※1 魚住昭 『証言 村上正邦』(講談社)P188
※2 この間の経緯を魚住昭の著作にだけ頼るのはさすがに危険だ。本稿では直接引用しないが、当日の様子は1995年6月7日から8日付の主要紙がほぼこの路線で報じている。魚住昭のインタビュー内容の「裏取り」をしたい各位は、当時の、新聞にあたってもらいたい。
※3 魚住昭の前掲書は、「あとがき」が出色である。この「一群の人々」という表現も「あとがき」ででてくる表現だ。読者各位におかれては、この「あとがき」のだけでいい。ぜひご一読願いたい。
<文/菅野完(Twitter ID:@noiehoie)>
これに関し、有識者会議の座長代理を務める北岡伸一・国際大学学長は、3月9日、「日本は侵略戦争をした。私は安倍首相に『日本が侵略した』と言ってほしい」と言明していた(20年前の「戦後50年決議」にかけられた圧力
6月6日の攻防
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