誰にでもある「かけがえのない日常」を描くこと――『街の上で』今泉力哉監督に聞く

俳優を選ぶ基準とは?

――俳優さんは、どのような基準で選ばれているのでしょうか。  極端な話、技術とかはどうでもよくて、その人が面白いかどうかの方に興味がありますね。熱量で言えば、温度を下げられる人が自分にとっていい俳優です。一生役者でやっていきますという人と、今はやっているけど今後はわかりませんという人がいれば、どっちも正しくはあるんですけど、自分自身は後者に惹かれる。正直であり、客観がありますよね。また、どこかでダメさのある人に惹かれる。常に一生懸命で曲がったことが許せなくて、という人は、僕がダメ人間だから一緒にやらないほうがいいです(笑)。まあ、言葉のあやですが。
(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

(c)「街の上で」フィルムパートナーズ

 俳優さんのキャラクターについては、もちろん撮影を通してわかることもありますけど、飲みの場とか、何気ないやりとりでわかることもありますし、そうした場は大切にしています。芝居の力や技術よりもその人自身を見ていて。一緒に何かをやるんだったら、馬の合う人とやったほうがいいかなと。  技術に興味がないというのは、撮影にも当てはまるかもしれません。たとえばカット割りですね。劇中で、映画の撮影に来た青が控室で(別の出演者の)おじいちゃんと語るようなシーンも、撮影前の想定では12カットくらいで考えていたんですけど、いざ撮ってみたら2カットで埋まったので、じゃあこれでいいかと。そういう技術面の細部よりも、やっぱり本質的な面白さにこだわりたいんですよね。 ――そうした今泉監督の視点は、『街の上で』ではイハに受け継がれているように思います。彼女は芝居がうまくいかなかった青に自ら声をかけます。青の芝居や表面的な部分ではなく、人柄に惹かれているような感じがしました。  イハは、別に芝居ができる人が好きなわけではないでしょうし、どうなんでしょうね。イハがどんな人かって私もわかっていないんです。自分を受け継いでいる部分があるとすれば、ダメな人に対する優しい眼差しはあるかもしれませんね。まあ、初対面の男に対して特に理由もなく声をかけて家に連れていくというのは、めちゃくちゃ危険だし、変なんですけど。このシーン自体に批判やツッコミがきてもおかしくない。「今泉の願望でしょ?」「男の都合のいい妄想でしょ?」と言われたら「そうね」としか言いようがない。明確な理由とかはないんですよね。そこはもう、ごめんなさいとしか(笑)。 ――今泉監督の作品は恋愛を扱った作品が主流ですが、肉体関係をにおわせる描写はまずありません。また、キスや手をつないだりなど、接触も最低限に抑えられています。  必要なら描くんでしょうけど、キスしたりセックスしたりして感情が高ぶる、というのは、殴ったら痛いとか、誰かが死んだら悲しいとかと一緒で、安易と言えば安易ですよね。確かにぐっとくるし緊張感も生まれるんですけど、簡単なことはやりたくない。私が日常で人に安易に触れないってこともあって、私の映画でも簡単に人に触れるのは基本的には禁止にしています。喧嘩のシーンで揉める時も、どつくんじゃなくて、近づいて圧をかけられるのであれば触らないでチャレンジしてもらいますね。三宅唱さんの『きみの鳥はうたえる』(2018年)で、路上でふたりがキスをしたりするのを見た時は、ああ、三宅さんはああいうキスをしてるんだな、と思って羨ましかったんですけど。いや、勝手な想像ですけど。私はできないなあと。憧れますけどね。大好きな映画です。

『街の上で』が訴える、日常のかけがえのなさ

――『街の上で』は「なんでもない日常」を映した作品ですが、それがこのコロナ禍の中で、逆にかけがえのないものに見えてくるとも感じます。  そうですね。劇中の話で言えば、たとえばライブハウスでまわりの人と感動を共有するという行為も、今は少し特別になってしまった。青はもともと孤独な人間なので、コロナ禍でも勤め先の古着屋が時短営業になるくらいで、そこまで生活に影響はないような気はしますけど、学生映画の撮影などはもろに影響を受けるとは思います。大学のサークルだと何かあった時に大学側の責任が問われるでしょうし、飲食店も感染拡大のリスクを考えると、簡単には撮影に店を貸しにくい。なんでもない日常が失われることで、はじめてそのかけがえのなさがわかるというのでしょうか。  良くも悪くも、映画を見る上で、現実の世界と照らし合わせて考えるところはあるとは思います。私の過去の作品だと、『終わってる』という映画は好例かもしれません。2011年3月に公開したんですけど、その映画には、私が幽霊というか死者として出演して、生きている友だちに対して「失恋とかできるのも生きてるからだからね。死んだら失恋すらできない。その辛い思いも羨ましい」といった台詞を口にするんです。その映画の公開中に東日本大震災が起きて上映が中断されて。2ヶ月後に再上映されたんですけど、本来はただのシュールなシーンだったのに、自然と言葉に重みが生まれてしまって。解釈が変わってしまった。  現在公開中の新作『あの頃。』(2021年)にも同じことが言えると思います。こちらは『街の上で』とは対照的に、シネコンで公開された予算感も大きな商業映画ではありますけど、アイドルオタクの青年たちの話なので、当然ライブやイベントのシーンもあるのですが、そういうシーンが必要以上に尊いものになってしまった。  ただ、私は時事的なものを自らすぐに作品に反映しようとは思いません。そういう今感とか、旬とかには興味がなくて。描くとしても、きちんと自分なりに理解してから描きたい。このコロナ禍についての映画を作ろう、となるのは早くても5年後とかでしょう。社会の状況が、私の作る映画に結果的に反映されることはあっても、やはり軸としては、いつも通りの、自分たちの日常に立脚した作品を今後も作っていくのではないかと思います。その、いつも、が揺らいでいるので、とても難しいことなんですけど。 <取材・文/若林良>
1990年生まれ。映画批評/ライター。ドキュメンタリーマガジン「neoneo」編集委員。「DANRO」「週刊現代」「週刊朝日」「ヱクリヲ」「STUDIO VOICE」などに執筆。批評やクリエイターへのインタビューを中心に行うかたわら、東京ドキュメンタリー映画祭の運営にも参画する。
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