災害時の聴覚障害者にとって必要なことは。『きこえなかったあの日』 今村彩子監督

ひとりの人間として描く

――主人公的な役割の聴覚障害者の加藤褜男(えなお)さんとはどのようにして出会ったのでしょうか? 今村:『架け橋』は、宮城県聴覚障害者協会の小泉正壽(しょうじゅ)さんの聞こえない人たちに対する支援の様子を追ったのですが、その時に小泉さんが加藤さんに扇風機を持って行ったんです。それが加藤さんに初めて会った日でしたが、扇風機の使い方を小泉さんから教わっていたことに衝撃を受けました。加藤さんは一人暮らしなので、大丈夫なのかなと。
©2021 Studio AYA

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 加藤さんは聴者の家族のもとに生まれ、学生時代はろう学校で手話が禁じられていたこともあって、手話が独特です。私がわかるのは数字くらいでした。聞こえる住民とのコミュニケーションは大丈夫なのかなと心配になりました。加藤さんを通して、高齢ろう者の抱えている問題が浮き彫りになるのではないかと思っていたんです。 ――ところが、加藤さんに対する考え方が途中で変わったとのことでしたね。 今村:そうです。加藤さんは避難所でも仮設住宅でもコミュニケーション方法が豊かで他の住民と交流していました。しかも、災害公営住宅の集会所の棚を作るなどして人の役に立っていました。加藤さんは自分なりの方法で人とつながろうとしていたんですね。  また、加藤さんの手話が読み取れず、私自身が加藤さんの話をわかろうとしない時もありました。加藤さんが昔の仕事をしてくれても「震災と関係ないから」と興味を持てなかった時期もあります。
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 編集作業をしていた時に、ある映画作家から「震災がその人の人生の全てではない」と言われて、頭を殴られたようでした。その後、加藤さんの映像を見直してみると、そこには一人の人間としての生き生きとした表情が映っていました。私は加藤さんを被災者としてしか見ていなかった。その時に自分の思い上がりがわかりました。  そういうこともあって、映画は被災した聞こえない人としてだけではなく、加藤さんというひとりの人間の物語になっていきました。

映画が元気をくれた

――映画を撮りはじめたきっかけは何だったのでしょうか? 今村:小学生の頃はろう学校ではなく、普通学校に通っていました。授業中は前から2番目に座って、先生の口の動きをじっと見ていました。1対1の会話は口の動きを見てわかりましたが大勢での会話はわかりませんでした。
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 当時はアニメの『ちびまる子ちゃん』が流行っていて、みんな主題歌の『踊るポンポコリン』を歌っていましたが、まだテレビに字幕がなかったので、私はついて行けませんでした。家で家族とテレビを見ている時も同じでした。そんなこともあって孤独感を感じていました。  テレビを一緒に楽しめず、さみしそうにしている私を見て父がスティーブン・スピルバーグ監督の『E.T』(‘82)を借りてくれたんです。物語にも感動しましたし、家族と一緒に映画を楽しめたことが嬉しかったです。そこで、父が毎週レンタルビデオ店に行って字幕付きの洋画のビデオを借りてくれました。洋画のアクション映画を見ていると元気になりました。「明日からもがんばって学校に行こう」と前向きになれたんですね。  それで大きくなったら映画を撮りたいと思うようになりました。アメリカの大学に行ったのは、日本では自己負担となる手話通訳費を大学が払ってくれるからです。 ――今後撮ってみたいテーマはどのようなものでしょうか? 今村:今までは自分と同じマイノリティの立場、耳の聞こえない人やLGBTの人、アスペルガーの人たちを撮って来ました。でも、今は障害のないマジョリティー、自分とは最も遠い存在の人たちを撮ってみたいと思っています。彼らにカメラを向けた時に自分は何を思うのかと。どんな映画になるのかはわかりませんが、知らなかった世界を知り、自分の思い込みや先入観が壊れたらと思っています。 <取材・文/熊野雅恵>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。
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