千和 / PIXTA(ピクスタ)
安倍晋三首相時代、よく我々は「安倍一強」などと書きたててきたものだが、その一強でも歯が立たなかった組織があった。それが「感染症ムラ」である。
昨年5月のことである。アベノマスクや全国一律休校、家でくつろぐミスマッチ動画の配信など、当時の安倍政権には数々のコロナ対応での失態があったものの、まだまだ退陣の兆しはなかった。それどころか、1年延長を決めた東京五輪のためにも何とかコロナ封じ込め作戦を強化せんと従来対応をレビューした。その結果俎上に上げたのがPCR検査の拡大・増強であった。
安倍氏本人が「検査プロセスに目詰まりがある」とその原因を指摘した上で、厚労官僚に検査を増やせ、とはっぱをかけたことがあった。当時厚労省は、感染者とその周辺にいた濃厚接触者を追いかけるクラスター追跡を封じ込め戦略の主軸としており、検査対象を広げることには極めて消極的であった。検査拡大で必然的に生じる軽症、無症状感染者が、医療現場をひっ迫させるのを恐れていたからだ。無症状者を野に放っていても感染爆発にはつながらない、とタカをくくっていた面もあった。
だがしかし、「一強」からの指示である。それなりに対応しなくてはならない。通常の役所であれば幹部が汗をかいて首相の意を体して動くであろう。そうでなくても、それなりにやったふりはするに違いない。ところが、驚くべきことに厚労官僚たちは、真逆に動いたのであった。
彼らが当時作った説明資料が残っている。「不安解消のために、希望者に広く検査を受けられるようにすべきとの主張について」と題したもので、「検査数を拡大すると疑陽性が増え、医療資源を圧迫し医療崩壊を招くことになるし、偽陰性を生むことで感染を拡大させる危険性が増大するので、医師や保健所によって必要と認められた者に対して検査を実施すべきだ」と書いてある。首相がどう言おうと、基本は検査慎重路線を継続せよ、との裏指令であった。この内部限りの資料を用いて、官邸中枢と一部有力国会議員に対し、ひそかに首相指示の火消しに回っていた、というのである。
裏切りの構図を暴いたのは、元朝日新聞主筆・船橋洋一氏率いるシンクタンク「アジア・パシフィック・イニシアチブ」が組織したコロナ民間臨調「新型コロナ対応民間臨時調査会」(小林喜光委員長)が昨年10月に出した調査報告書だ。関係者数十人にヒアリングした信ぴょう性の高い資料である。安倍氏もこれを読んで初めて自分の指示が末端に届いていないことを知ったのではないか。
それにしても、厚労省はなぜかくまでPCR検査を忌避したのか。
偽陽性、医療崩壊懸念が彼らの表向き理由だ。だが本質は別だと指摘するのが上昌広・特定非営利活動法人医療ガバナンス研究所理事長である。上氏によると、理由は3つある。
第一に法制上の問題だ。現行感染症法が検査対象を濃厚接触者に限定している点である。この条項をエッセンシャルワーカーら無症状感染者にまで広げるよう改正すればこのネックはなくなる、というのだが、厚労省は頑としてそれに応じない。「検査を特定の組織、団体だけで利権化しようという動機があり、人災に近い」というのが上氏の解説だ。
第二のネックが当時の専門家会議、今で言えば感染症分科会の存在だ。そのシンボルとも言うべき尾身茂氏(独立行政法人地域医療機能推進機構理事長)の発想に限界がある、という。つまり限られた検査資源の有効利用が重要であり、検査資源のベースそのものを拡大していこうという構えがない、というのである。
第三が、感染症ムラのデータ利権と予算利権の温存である。検査数が増えれば国立感染症研究所(感染研)の処理能力を超え、民間検査への依存が強まり、その結果感染研のデータ独占体制が崩れる。「1日に何万件もの臨床検体を取り扱い、事務手続きや会計処理をするのは、民間検査会社でなければ不可能だ。検査希望者が増えれば、やがて感染研ではコントロールできない状況になる」という。また、それは結果的に、検査関連・周辺予算を一手に握っていた感染症ムラの予算利権をも侵食することになる、というわけだ。
ちなみに上氏は厚労省が検査に慎重な理由としてPCRの精度を挙げていることについて「感度が低ければ、繰り返し行うのが、『ネイチャー』にも発表されている世界的な常識だ。仮に3割エラーが出るとして、2回PCR検査を受けて、エラーとなる確率は9%、3回受ければ1%以下になる。疑陽性者も何度も検査することで、正確なことがわかる。どんどん検査すればいい」と語る。