『ある人質 生還までの398日』。ISに囚われたカメラマンと身代金のために奔走する家族の物語

「エベレストに登るかのよう」な過酷なエピソード

 前述した身代金のために奔走する家族の物語と同時並行する形で、拉致監禁され心身ともに疲弊していく青年ダニエルの姿も克明に描かれる。そこには、もはや俳優の演技だとはとても思えないほどのリアリズムがある。  主演のエスベン・スメドは、主人公の元・体操選手らしい肉体を作るためにジムで念入りにトレーニングをする一方で、その後の人質のシーンのために2段階に渡って8キロも減量している。そのため、ファーストシーンでは健康そのものだった青年が、文字通り別人のように変わり果て痩せ細る様がスクリーンにまざまざと映し出されていく。(撮影の一部ではスタントマンも起用したそうだが)その身体能力を生かして命懸けの脱出を図るシーンも、とてもスリリングだ。
(c)TOOLBOX FILM / FILM I VÄST / CINENIC FILM / HUMMELFILM 2019

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 スメドは実際のダニエル本人と何度も会って話を聞き、その人柄ごと再現できるように務めたそうだが、ダニエルの監禁時のエピソードで衝撃的なものがある。それは、最初に散々殴りつけられた状態で1日にできたのは、立ち上がって、再び横になることだけであったこと。しかも、丸1日かけてやっと可能になったその行動を、今度は1週間続けて行った。そのおかげで翌週には起き上がって1歩を歩いてから、横になることができるようになった。そのまた翌週には2歩を歩けるようになった。1ヶ月後に、ようやく収容所の2つの壁の間を往復できるようになった……と、彼はその時のことを「エベレストに登るような感覚だった」と振り返ったという。  1年以上に渡る監禁と拷問の心身へのダメージは、そのエピソードで想像される以上に、スクリーン上では過酷に見える。それが俳優の尋常ならざる役作りと、リアリティをとことん追求した舞台立ての賜物であるということは言うまでもない。なお、劇中の拷問シーンは確かに苦しく辛いものであるが、過度に直接的でもなく露悪的にもなっていない、G(全年齢)指定で問題のない、必要十分の描かれ方であったということも付け加えておく。

「日常」を描いた、身近な物語

 本作は異国の地でテロリストに拉致監禁された上に拷問されるという、ほとんどの人が経験しない特殊なシチュエーションを描く作品だ。だが、意外と言うべきか「親しみやすい」「身近な物語」という印象も強い。
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 それは、前述した「家族が大切な息子のために奔走する」という物語と並行して、主人公が数日前まで写真家という夢を叶えようとしていた普通の青年であり、拉致監禁されてからも同室の仲間たちと交流し、ユーモアも忘れないでいようするなど、その状況の残忍さに屈しない精神力が、その「人間くささ」も併せ持った形で描かれているためだろう。  主演のエスベン・スメドもまた、「劇中の拷問は尋常ではないし、不快感を与えますが、それは原作と映画が意図することではありません。もっと重要なことは、この男性が置かれた尋常ではない状況、またそれが、彼の家族にどのような影響を与えたかということです」と語っている。劇中のような拉致監禁や拷問でなくとも、家族の誰かが期せずして辛く苦しい環境下に置かれてしまい、そのために良い方向でも悪い方向でも家族みんながその影響を受けるというのは、この日本でも十分にあり得ることであるし、確かにそのドラマこそが物語の本流であると観れば誰もが納得できるだろう。
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 実際にダニエルが体験した398日もまた、彼にとっての「日常」になっていたという事実もある。私たちがいる安全な日常とは対照的な、このような生き地獄が実際に存在するということは信じがたくもあるが、だからこそ「あった」ことを克明に示すこの映画には、確かな意義がある。  そして、ダニエルの写真家としての使命は、「戦争の中の日常を撮影し、世界に伝えたい」ということだった。皮肉というべきか、この映画もまた拉致監禁される青年と、その家族を姿を通した「戦争の中の日常」を描き、世界に発信する作品となった。そして、彼が体験したその生き地獄の日常を追体験させてくれるからこそ、この映画は世界をより良くするためには何ができるのか、ということを今一度考えさせてくれている。「どこか違う世界の話」だと決して思わずに、ぜひ観ていただきたい。 <文/ヒナタカ>
雑食系映画ライター。「ねとらぼ」や「cinemas PLUS」などで執筆中。「天気の子」や「ビッグ・フィッシュ」で検索すると1ページ目に出てくる記事がおすすめ。ブログ 「カゲヒナタの映画レビューブログ」 Twitter:@HinatakaJeF
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