松田と知り合った伊藤は、1988年には埴谷とも知己を得る。伊藤は、松田やその他さまざまな人びとが訪れる埴谷邸に「充実」の空間を見出した。たくさんの言葉が行き交う、心地よい空間だった。
「埴谷さんのおうちに伺ったことで、わたしにとって重要なことといえば、具体的に『充実』した空間を見せてくれたということ。いろんな人が来ていて、一昨年亡くなった高取英さんが一緒だったりとかもあった。約束をして会う、というのじゃなくて、“近くに来たんです”と言って、気楽に顔を出すことができる、“誰が来てもどうぞ”という感じだった。
埴谷さんもラフで、寝間着で出てくる。たとえば、わたしが埴谷さんの家にいるときに(映画監督の大島渚が)電話をしてきて、『タクシーの帰り道だから』と、なんとなく急にやって来たことがあった。埴谷邸に集まるというより、交差点というような。身体と言葉が同時にあるから、交差の瞬間には言葉も充ち満ちる感じで、穏やかとか白熱とは関係ない、緊張感があって、それがむしろ心地良かったかな」
松田は自らの考え方の根底に「永久革命」と「存在論」があると語っていた。抽象的な話だが、前者は“全宇宙史の中では革命が永久的であり、人為的に押しとどめることはできない”というものだ。
後者は「人間とは何か」を考えるだけにに止まらず、人間を考えるとはなにか、ということからどんどん思考を連鎖させていく行為、とでもとらえられるだろうか。松田がこのふたつの視点を持つに至ったのには、埴谷が大きな影響を与えている。
「松田さんは、『存在論』という視点から、埴谷さんを信頼していたように思う。自分はまだそこに至っていないけど、でも埴谷さんは『悟っている、わかっている』みたいな言い方をしたこともあった。
わたしに対しても、松田さんが、「『存在論』自体として存在している少女だから、いいなあ」って言ったことがあった。愉悦とか理想郷とか。“でも、それはそう言うことじゃないのではないですか?”とも思うわけだけど、松田さんが、ふとそういうことを言ったときの、なんていうか、その感じを覚えてる」
存在をめぐる抽象性の高い議論。この思考や感覚が、埴谷から松田、松田から伊藤へと連鎖していく。埴谷が松田にとって「教師」として大きい存在であったのと同じように、伊藤にとってもまた、松田が「導き手」であった。伊藤は語る。
「自分では移動してるつもりなのに、いつも松田さんがいて、それが松田さんらしい。わたしがやっていた、左翼出版社、アングラ芝居、ピンク映画……。今考えれば、出版もお芝居も映画も、どれも「表現活動」みたいなものだから、松田さんの仕事の範疇を考えると、出会うのは当たり前のことなんだけど。
でも、当時は自分は違う場所に移動しているつもりなのに、移動するとそこにいつでも松田さんがいる、という感じだった。わたしには知識や言葉を拒絶しながら、実体としてのなにかを求めるとか、実態や実感がどれほどの正しさがあるのか、試してみたいと考えていた時期があって、だから裸になったりもして。いったん言葉を捨てようとして、また言葉に戻ってくるというか、なにかの概念にたどり着き直そうとしていたというか。そういう流れのなかで、松田さんは一人の導き手だった。
松田さんは埴谷さんを先達として信頼していたように、わたしにとって松田さんは尊敬する先達でした」
(文中敬称略)
<取材・文/福田慶太>
フリーの編集・ライター。編集した書籍に『夢みる名古屋』(現代書館)、『乙女たちが愛した抒情画家 蕗谷虹児』(新評論)、『α崩壊 現代アートはいかに原爆の記憶を表現しうるか』(現代書館)、『原子力都市』(以文社)などがある。