グレーバーが示したオルタナティブの可能性<デビッド・グレーバー追悼対談:酒井隆史×矢部史郎>

永遠の楽天主義者

酒井 グレーバーは、そういう可能性の切り縮めに対して、いや違うよ、アナキストはこういう発想をするんだよ、というんだよね。でさ、そういわれてみて、改めて自分を振り返るじゃない、で、ああ、そういう発想なんて全然してこなかったなあとおもって。 矢部 悲観主義的、ペシミスティックになって。 酒井 グレーバーは晩年に、自らのことを「永遠の楽天主義者」といっていた。楽天主義というのはカッコ悪いとされがちだけど。 矢部 シニカル、ペシミスティックなほうがカッコよくおもわれがちだから。 酒井 でも、シニカルなのがカッコいい、っていうのって、それって要するに子供でしょ。もちろんね、楽天主義といっても、ほんとうに愚直に知性と可能性を信じていないと、ただのアホでもあるし、実際のところ、そういうひとだっていっぱいいる。とくに大学の教師で、自分の学生だけみて「若い世代にはこんなに希望がある」といいたがるってあるけど、ああいうのをみるとほんとうに絶望的になる。ドゥルーズがいっているじゃない、「人間が絶望して死にたくなる時というのは、テレビでの楽天主義的な発言を聞いた時」とかいうの。 矢部 ドゥルーズでいえば、「ぞっとするほど低俗なものを見たときに、やっぱり哲学をやらなきゃ、とおもう、と。それが哲学の動機です」というのもあって(笑)。 酒井 そうそう。で、左派の好む(マルクス主義思想家の)アントニオ・グラムシの言葉があるでしょう。「知性のペシミズム、意志のオプティミズム」。  グラムシは好きだけど、あれが引用されるとなんかブルーになる。知性でダメなものを意志で押すなんて、これって日本の軍隊とも通じない?  だったら、反グラムシ的なネグリたちの逆転のほうが好ましい。「意志のペシミズムと、知性のオプティミズム」ね。でも、グレーバーって、こうした意志と知性の区別がないというか、意志においても知性においても楽天主義というか、なんでしょう、人類史から事実としての裏づけを持って出してくれるから、あ、そうなんだとおもってしまうんだよね。あんまり好きな言葉じゃないけど、「中二病」的な気取りが入ると、ペシミスティックになり、シニシズムなどに走って、それを知性だと勘違いしてしまう矢部 青年期にはありがちなことではあるけれど。 酒井 そういう気取りだって、一概に否定できることじゃないけども、ただいつまでもそういうわけにもいかない。

「30歳を過ぎて、ユートピア主義者でないのは愚かだ」

酒井 それと、(政治家の)ウィンストン・チャーチルがいったということになっている「25歳でリベラルでないのはひとでなしだが、30歳で保守主義でないのは愚かである」という言葉があるんだけど――実際にはチャーチルは、15歳のときに保守主義者で、35歳のときはリベラルだったけれども――グレーバーはそれをパロディにして「30歳を過ぎて、ユートピア主義者でないのは愚かだ」といっている。  グレーバーはプラトン的、ヨーロッパ的な伝統がユートピア主義をおとしめていると嘆くんだよね。その伝統って、それこそ条理でもって整然と都市を構成するような発想のことね。  それに対して、ユートピアにはべつの要素がある。「ユートピア主義っていうのは、可能性を信じるというところで誰でも本来は幾分か持っているものであって、その上で、なにがしかの経験がアナキズム的原理でうまくいく、それを信じるような契機を持った人間がアナキストになる」といってるんだけど、これ、よくわかる。  実際、自分たちがなんの指導もなしにうまくやった経験、むしろ全部委ねられたからこそうまくいった経験というか、「(津波が来たらとにかく各自が誰にもかまわず高台に逃げよ、という教えの)津波てんでんこ」だってそうでしょ。津波で逃げられなくて多くの子供が亡くなった小学校とかはその逆で。 矢部 「津波てんでんこ」の逆で、学校からの指示のために助からなかったケースもあったね。
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