森政権時代の2000年12月05日、森首相(当時)と橋本龍太郎行革担当相
「女性はいくらでも嘘をつけますから」と性暴力被害者蔑視発言をした杉田水脈議員が自民党の女性局次長に就任したことが話題になった。バックラッシュ的な見解を持つ女性の意見で「女性の声」を「乗っ取る」という事態が起こっていることが垣間見える。
しかし、こういった「女性の声」の「乗っ取り」は今に始まったことではない。そう、ずっと前から男女共同参画は「乗っ取られ」てきたのだ。
2001年、日本における初の本格的な女性政策機構として内閣府男女共同参画局・男女共同参画会議(以下、男女共同参画局/会議)が生まれた。これまで、欧米各国でのこういった女性政策機構の成立はジェンダー平等を推し進めることにつながり、とりわけ政府の中核(日本でいう内閣府)に置かれることが、重要とされてきた。
ところが、女性政策の躍進の時期であったといわれている1990年代に対して、2000年代はバックラッシュと停滞の時期といわれている。国連のUNDPが出しているGEM(ジェンダーエンパワーメント指数)でも、2001年31位から2009年57位と大きく順位を下げている。
これは一体なぜだろうか?この連載の目的は、内閣府男女共同参画局/会議の成立がジェンダー平等につながらなかった原因を探ることだ。
この第1回の記事では男女共同参画局/会議成立までの歴史を紐解き、国際的なフェミニズム運動による外圧と国内での橋本行政改革の合流地点で起こった「多元化」と「集権化」の相克こそがその性格を決定づけたことを示したい。
第2回・第3回の記事では、男女共同参画局/会議の成立以降、その性格がどのようにバックラッシュと停滞につながったかを見ていきたい。
2001年の内閣府男女共同参画局/会議の成立前にも女性政策担当部局は存在していたが、小規模で、権限や基盤も弱いものだった。それが徐々に拡充したのは、国連やNGOなどの非国家アクターを主体とした国際的なフェミニズム運動による外圧によるものだった。
戦後すぐの1947年、アメリカの占領政策によって、日本初の女性政策担当部局である労働省婦人少年局が誕生した。当初は山川菊栄ら女性運動家を登用するなど踏み込んだ取り組みもあったものの一時期に終わり、大きな変革には繋がらなかった。日本の草の根のフェミニズム運動も戦争協力の負の遺産を引きずっており、他の先進国に比べ盛り上がりに欠けていた。
1975年には、国連の「国際婦人年」をきっかけに、婦人問題担当室が設置された。その後、しばらくは女性政策担当部局は拡充しなかったが、1994年になると、国連社会経済理事会の決議をきっかけに、男女共同参画室が設置された。
同時にこの頃、この国際的なフェミニズム運動の流れのなかで新しい動きが起こってくる。あらゆる分野にジェンダー平等の視点を組み込む「ジェンダー主流化」実現のために、政府の機構のなかで女性政策担当部局を中央集権的かつ領域横断的な位置づけに置くべきだという考えが強調されるようになっていったのだ。