また、この時期になって、上記の国際的な外圧による女性政策担当部局拡大の流れに、橋本行政改革の流れが合流したことによって、男女共同参画局/会議が誕生した。このことが、「多元化」と「集権化」が相克する男女共同参画局の性格を決定づけることになる。
第2次橋本内閣で行われた橋本行政改革とは、首相の地位強化による「政治主導」の実現を目指すものだった。戦後日本では、長く政権交代が行われない自民党一党優位制のもとで、政府・与党二元体制(※1)などに見られるように議院内閣制の基本原理から逸脱しているという批判がされてきた。そこで、首相のリーダーシップを明確化するために、様々な改革が行われた。そのなかで、従来の総理府に代わって、他省庁よりも一段高い位置にあり、首相を長とする内閣府が新設された。
(※1)自民党の族議員を中心とした政策審議機関が、内閣とは別ルートから行政権を統制している状況のこと。
そして、その内閣府に男女共同参画局/会議が設置されたのである。中央省庁を半減するなかで多くの局が統合・廃止されるなか、唯一の格上げとなった。この改組によって、男女共同参画会議は受け身で諮問を受けるだけではなく、必要があれば政府の施策の監視・影響調査を行い、主体的に各大臣に対して意見を述べることが認められるなど法律上の権限は向上した。
男女共同参画局/会議成立の背景には、それぞれに女性党首を頂く社会党・新党さきがけが閣外協力に当たって結んだ政策合意に、「女性基本法」制定と男女共同参画室の格上げが盛り込まれていたことがある。また、行政改革会議に猪口邦子が女性で唯一参加して、設置を主張したことも重要だった。このとき、いわば戦略的に、国際的なフェミニズム運動による「ジェンダー主流化」の考え方が、橋本行政改革による「首相のリーダーシップの明確化」の考え方と接続されたのである。
この時までは、格上げされ権限も向上した男女共同参画局/会議は、ジェンダー平等を実現していくかのように思えた。しかし、この後バックラッシュと停滞の2000年代がはじまることになる。それは、なぜだろうか?
上で述べたように、国際的なフェミニズム運動による「ジェンダー主流化」の流れに対して、橋本行政改革による「首相のリーダーシップの明確化」の流れが結合したところに男女共同参画局/会議は成立した。しかし、この2つの流れは本来全く違うものだ。
前者は政府中枢に対してマイノリティである女性の声を取り入れるという「多元化」を志向するものだが、一方後者は首相のリーダーシップを明確にするという「集権化」を志向するものである。この2つの矛盾する性質の相克が、その後のバックラッシュと停滞に繋がることになったのである。
当初から男女共同参画局/会議成立の動機は「多元化」と「集権化」を志向する曖昧なものだったため、初期は多元化の性質と集権化の性質が混在して現れ、男女共同参画局/会議の影響力の増大には繋がらなかった。さらに、その多元化の性質が、行政改革の本来の目的である集権化を達成する障害になると判断されると、フェミニズム運動家による政策へのアクセスが制限されるようになっていった。そのことによって、女性政策はフェミニズム運動から乖離し、保守的な政権与党に取り込まれていったのである。
第2回・第3回では、この経緯の詳細を述べていきたい。
<文/川瀬みちる>
1992年生まれのフリーライター。ADHD/片耳難聴/バイセクシュアル当事者として、社会のマイノリティをテーマに記事や小説を執筆中。
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