誰が「大阪市」を守ったか──組織と個人の戦いだった「都構想」住民投票

「負けたら大阪にいられない」という覚悟

川嶋議員が地元商店街の空き店舗に開設した説明ブース

川嶋議員が地元商店街の空き店舗に開設した説明ブース

 住民投票の運動が行われた3週間、私は川嶋の動きに注目していた。2007年に初当選して4期目の自民党市議団副幹事長。同党には今や珍しく、世襲議員ではない。大手企業を脱サラ後、家業の印刷業を約10年間手伝い、市議となった。都構想をめぐる論戦では、反対派を代表する論客として法定協議会で中心的役割を果たした──毎日新聞が報じた「基準財政需要額」の試算も、彼が繰り返し求めていたものだ──が、周囲の評では一匹狼的なところがあり、「早口で理屈が勝ち、話がわかりづらい」と言われたりもする。  私は以前の取材で「住民投票に負けたら、もう大阪にいられない。離れようと思う」と彼が漏らすのを聞いていた。背水の覚悟で臨む戦いを見届けようと、動きを追ったのである。  以前、当サイトにも書いたが、自民党の大阪府連は個人商店の集まりのようなもので、組織としてのまとまりが弱い。今回も、府議の一部が都構想に賛成を表明し、足並みは乱れた。党本部の支援もなく、運動費用は維新が4億円と言われたのに対し、自民は議員のカンパや党員の寄付も合わせて5000万円集めるのがやっとだった。 「府連からもらう分以外に、自分でもチラシを刷ったり、看板を作ったり。本も出版したけど(『とことん真面目に大阪都構想の「真実」を語る!』公人の友社)、500部は自分で買い取ったから、持ち出しも多いですよ。スタッフを雇うお金なんかないから、一人で軽自動車を運転して、これでしゃべりながら市内を回ってね」と、川嶋はヘッドセットマイクを指し示した。

市民が自分で情報を取り、考え抜いた

 運動期間中、そんな彼の姿を私は何度も見ている。だが、市民の関心を集めていたとは言い難い。告示の10月12日、心斎橋で柳本と並んだ街頭演説では、足を止める者はほとんどいなかった。2週目の同19日には、地元の東成区大今里の商店街で支援者から空き店舗を借り受け、説明ブースを開設した。ある日の午後、しばらく見ていたが、1時間余りの間に訪れたのは3人。川嶋は解説動画を流しながら、特別区になれば住民サービス低下の恐れが大きいことや防災体制の懸念などを熱心に説いていたが、とても効率的とは言えない。  投開票当日の夕方には、最後の街宣をする彼の車に同乗し、区内を回った。  「都構想の投票締め切りまで、あと1時間半です。大阪市を廃止する大きなリスクを負うかどうか、よーく考えて大切な一票を行使してください。不安な方、少しでも反対の気持ちがある方は、ちゃんと投票に行ってくださいね。後悔することだけはないように……」と抑えたトーンで語りながら、暗くなった住宅街や商店街の狭い道を走る。道順や地域事情が頭に入っているから、他人に任せるより、自分で運転する方がよいのだという。  だが、「手ごたえはさっぱり」というのが、川嶋の実感だった。期間中、顔を合わせるたびに聞いてみたが、答えはいつも同じだった。こうした経緯があるだけに、「自民党が勝ったわけじゃない」という否決直後の言葉には実感がこもり、よく理解できた。市の存続決定にとりあえず安堵しているものの、喜びに沸き立つ言葉や表情は一切なかった。 「自民党が運動の柱になれない中で、市民のみなさんが自分で情報を取り、考え抜いた。私のブースにも、知り合いに配るからとチラシを何十枚も取りに来た方がいました。それぞれが大阪市への思いを持って動いてくれはったおかげやと思います」
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在阪メディア「維新政局報道」の限界
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