時事通信社
前回の記事では、菅義偉首相が呼びかけた番記者との
パンケーキ懇談会と各社キャップとの
ホテルでの懇談会について、取り上げた。どちらも「完全オフレコ」の懇談会であり、そのような場への参加が読者からの不信を招いている中で、社としての判断が問われる問題だった。
今回の記事では記者個人に目を転じ、
記者と政治家の距離感について考えてみたい。
朝日新聞は「桜を見る会」問題のさなかの2019年11月と12月におこなわれたキャプ懇談会と番記者懇談会に出席したが(毎日新聞はともに欠席)、パブリックエディターの見方も含めてその是非を振り返る記事を2020年2月14日に掲載している。
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首相と会食、権力との距離は 記者ら飲食ともにする懇談(朝日新聞デジタル2020年2月14日)
その記事の中で
円満亮太政治部次長は、政治家と会食することに対して「取り込まれているのではないか」という不信を抱かれることに触れた上で、こう記している。
「今回の首相との会食への参加には、社内でも議論がありました。桜を見る会をめぐる首相の公私混同を批判しているさなかです。しかし、私たちは機会がある以上、出席して首相の肉声を聞くことを選びました。厳しく書き続けるためにも、取材を尽くすことが必要だと考えたからです。
取り込まれることはありません。そのことは記事を通じて証明していきます。」
さて、会食したからといって取り込まれることはないというのは、そうなのだろうか。
「取り込まれることはない」というときに、
「社として」と「記者として」を分けて考える必要があるだろう。「社として」なら、政治部と社会部の役割分担や、番記者・キャップ・編集委員など社内で異なるポジションにある者の役割分担、外部の識者コメントの活用など、様々な形で批判的なスタンスを保つことは可能だろう。しかし、一人の記者としてはどうなのだろうか。
円満亮太政治部次長がこの記事で述べているように、「政治記者とは矛盾をはらんだ存在」だ。「政治家に肉薄してより深い情報をとることを求められる一方、権力者である政治家に対しての懐疑を常に意識」せねばならないからだ。
「厳しい記事を書けば、当然取材先は口が重くなる。しかし、都合の良いことばかり書くのは太鼓持ちであって新聞記者とは言えません」。では、どういう接し方が適切なのだろうか。おもねるわけでも批判的であるわけでもなく、フラットに接するのがよいのだろうか。しかし、フラットな接し方にも問題はある。
ここで記者に取材される側の筆者の体験を少し紹介したい。筆者の場合、今の国会審議をどう思うかなど、単に論評的なコメントを求められる立場であり、説明責任が問われる立場ではない。そのため、政治家を取材対象とする場合とは記者の接し方も違うだろう。それでも、記者という職業の人たちの関係性の取り方は独特だなと感じることが多い。
政党機関紙は別として、朝日新聞や毎日新聞のような大手紙の場合、記者は取材時にこちらの話を頷きながら聞くものの、その話の内容に対する自分の反応を示すことが少ない。「
なるほど」と相槌を打つが、それ以上の言葉を発しないことが多い。
「なるほど」というのは賛否いずれをも示さない便利な言葉だ。「なるほど、本当にそうですよね」という場合にも使われるし、「なるほど、あなたはそうお考えなのですね(私は違いますが)」という場合にも使われる。
だから、「なるほど」としか言葉を返さない記者に対しては、こちらもあまり熱心には語りにくい。この記者はこの問題をどのくらい深く理解しているのか、この話題にどういう問題意識を持っているのか、こちらの話をどのくらい理解し受け止めてくれているのかが、分からないからだ。
それに対し、「
そうですよね、私も……については……と思っているんです」とか、「
……のときにも……でしたよね」などとみずからの問題意識を記者が語ってくれれば、そしてその問題意識がこちらの問題意識とかみ合うものであれば、話はより深まり、発展していく。
そのように自分の問題意識も示しながら話を聞いてくれる記者もいるが、少ない。多くの記者は、取材記者と取材対象者というフラットな関係性のうちにとどまろうとする。そこには、相手の話を遮らず、相手の話を自分の思う方向に誘導しないため、という意図もあるだろう。けれども、あえて自分の立場を示さないのが記者というものだ、という職業意識を感じることもある。
「自分は記者である以上、いつかはあなたについて批判的に取り上げる記事を書くことになるかもしれない」――そのような、あえて距離を取ろうとする記者側の意識を感じることもあるのだ。そういう意識を感じると、やはり取材される側としては緊張し、距離感を抱く。逆に、同じ方向での問題意識を示してくれる相手に対しては、親しみを感じ、饒舌になる。
それは政治家でも同じではないかと思う。やはり、批判的なことを書く相手には警戒心が先に立ち、できるだけコメントせずに済ませたいという気持ちになるだろうし、ただ頷いて聞くだけの者には淡々と話すべきことだけを話すだろう。そして、同じ方向性の反応を返しながらより共感的に聞いてくれる相手に対しては、相手が記者だという警戒心を完全に解くわけではないにせよ、心を許して口にする言葉もあるだろう。
だからやはり、この政治家はいま何を考えているのか、この政治家の本音はどこにあるのか、といったことを探りたいなら、記者は相手の懐に入って行こうとするだろう。
そうして相手と目線を合わせ、考え方を重ね合わせていくほど、相手との距離は近くなるだろう。その際、その取材対象者が与党の政治家であれば、その記者の考え方も自然と政府与党寄りの考え方となり、権力監視の視点が弱くなっていくのではないか。しかしそうすると、市民が知りたいことを記者が代わりに権力者に問う、という役割は適切に果たせるのだろうか。