タイミングを見計らって報じられる本音と、その時々の課題対応
記者が政治家に密着しているからこそ捉えることができる姿や発言というのは確かにあり、それが記事を通して私たちに伝えられる意味というのも確かにある。例えば2019年10月から約1年間、菅義偉官房長官(当時)の番記者として取材してきた
毎日新聞政治部の秋山信一記者は、菅氏が首相となったのちの2020年10月2日に下記の記事を公表した。
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記者の目:「権力」を熟知、菅政権に望む 「当たり前」を着実に=秋山信一(政治部) (毎日新聞2020年10月2日)
この記事では、2019年11月に安倍晋三首相(当時)の通算在任日数が歴代最長になった際に、議員宿舎に帰宅した菅氏が、「長く続けることがおめでたいわけではない」と言った上で、「権力」について「重みと思うか、快感と思えるか」とボソッと語った、と記されている。
菅氏が首相となった現在のタイミングで、権力というものに対する菅氏の考え方を知ることができるのは確かに意味がある。ただしここで目を向けるべきは、
2019年11月の発言が1年後の今になって初めて記事にされているということ、そして、
秋山記者は菅官房長官の番記者という役割を離れたからこそ、このような記事が書けたのだろうと推測されることだ。
オフレコの場でとらえた権力者の、普段は見せようとしない姿や発言を、どこかのタイミングで、どこかの場で報じる。埋もれたままにさせない。新聞社にとっては、「取り込まれることはない」という一例だろう。しかし、
それでは遅いのではないか。
本当なら権力というものに対する菅氏のこのような考え方は、官房長官時代に報じておいていただきたかった。あるいは少なくとも、総裁選時には報じていただきたかった。しかし、番記者という立場ではこのオフレコ発言は報じることができなかったのだろう。
そうであるならば、
オフレコの場でつかんだ本音を、出しても問題のないタイミングを見て報じることよりも、公開の記者会見の場で、日々の課題に対して追及を深め、説明責任を求め続ける中で、政治家がそれにどう対応するか、その姿を直接市民に対して可視化させることの方が重要とは言えないだろうか。
例えば
法改正が議論になっている局面であれば、そのタイミングで争点についての政府の姿勢が可視化されないと、問題があっても世論が気づかないまま法改正が行われてしまう。現在のようにコロナ禍が進行中である中での対応策の是非や五輪開催の是非などの問題もそうだ。
時々刻々と状況が変わる中では、日々の政府対応への追及を深めることこそが肝要になる。
与党政治家の本音に迫ろうとすればするほど距離を置いた関係性は難しくなり、深く追及する質問はしにくくなり、批判的な記事は書きにくくなるだろう。であるならば、後で何らかの形で報じられる本音を取材対象者に近づいてつかみ取ることよりも、
今現在の問題について詳しく説明責任を求め、深い追及に対して相手がどう記者会見の場で答えるかを広く市民に可視化させることの方が優先されるべきではないか。
記者が政治家とそういう関係性を取ることは、特ダネという意味では得るものが少なくなるかもしれないが、
市民の生活を守るという意味や、市民の政治に関する関心に応えるという意味では、より重要なことではないか。
報道機関の詳しい内部事情は筆者にはわからないので、あまり推測で書くことは控えるべきだろう。しかし、最前線の記者が記者会見の場で鋭く切り込むと同時に取材対象者との距離を縮めて本音を聞き出すということは困難だろうと容易に想像できる。だから、「
取り込まれることはありません」という模範解答で済ませるのではなく、市民は何を求めているのか、そしてその市民の期待に応えるためにはどういう取材の体制や姿勢が必要なのかを、市民の問題意識を適切に織り込んだ形で問い直してほしいのだ。
◆【短期集中連載】政治と報道 2
<文/上西充子>