学術会議問題と人種差別。「見た目」で判断する権力の理不尽さ。<史的ルッキズム研究10>

「犯罪者というものは見ればわかります」

 少し歴史を振り返ってみましょう。  1992年、アメリカのロサンゼルスで歴史にのこる大暴動が発生します。ロス暴動です。暴動のきっかけになったのは、警察と司法によるアフリカ系アメリカ人への虐待事件です。二つの事件がロスの住民を憤激させます。ロドニー・キング事件と、ラターシャ・ハーリンズ事件です。  ロドニー・キング事件は、ハイウェイパトロールの警官隊による集団暴行事件です。被害者の男性ロドニー・キング氏は、武器を持たず抵抗もしていないのに、警官隊から長時間の暴行を受けて重傷を負います。この暴行事件で警官は訴追されますが、裁判所の判決は無罪となりました。この虐待事件と虐待を追認する差別的な判決は、全米のアフリカ系アメリカ人の怒りを惹き起こします。肌の色が黒いというだけで警察に呼び止められ、犯罪者のように取り押さえられ、暴行される。そうした差別的な扱いに対して、住民の怒りが爆発します。  もうひとつの事件、ラターシャ・ハーリンズ事件は、アフリカ系アメリカ人の少女が殺害された事件です。  ラターシャは、近所の商店でジュースを買おうとしていたところ、韓国系アメリカ人の店主トゥ・スンジャから万引きを疑われ、口論となり、殴り合いになります。怒ったトゥはカウンターから拳銃を取り出し、店を出ようとするラターシャを背後から撃ち、殺害してしまいます。この事件は、アフリカ系アメリカ人住民と、韓国系アメリカ人との間に、軋轢を生み出します。しかしこの軋轢を激しい人種間対立へと発展させてしまったのは、裁判所の異様な判決でした。事件を担当したのは、コーカソイドの女性判事、ジョイス・カーリンです。ジョイスが下した判決は、トゥ被告に対する懲役刑を猶予し、5年間の保護観察、400時間の社会奉仕と500ドルの罰金刑という非常に軽いものでした。通常の殺人事件ではありえない判決です。この判決にラターシャの遺族は憤慨し、アフリカ系アメリカ人住民は怒りを爆発させます。  なぜこのような判決にいたったのか。ジョイス判事は、あるテレビのインタビューで、こう語っています。 「犯罪者というものは見ればわかります。 コミュニティを脅かす存在は、見ればわかります。 そうではない者(トゥ被告)に重刑を科すことはできません。 I know a criminal when I see one. I know a person who presents a danger to the community,when I see one. When I don‘t,I treat that person as something other than that. 」 (『LA 92』ナショナルジオグラフィック)  善人か悪人かは、見ればわかる。これは容疑者にリンチを加えた暴力警官の発言ではなく、判事の言葉です。彼女は、被告が更生できる人間かそうでないかは、見ればわかると言ったのです。彼女は自分の経験と見立てに自信を持っていて、そこに頼りきっています。その見立ては、人種的偏見をたっぷりと含んだ見立てです。少女に向けて拳銃を発砲した商店主がコミュニティを脅かす存在でないのだとすれば、いったいコミュニティを脅かしているのは誰なのでしょうか。アフリカ系の少女が、コミュニティを脅かしたというのでしょうか。ジョイス判事が自信をもって出した見立ては、トゥがラターシャを万引き犯だと誤認したのと同様の偏見に基づいています。ジョイス判事は、トゥが犯した誤認を、やむをえないことだったと追認したことになるわけです。  ロドニー・キング事件とラターシャ・ハーリンズ事件は、ともにアフリカ系アメリカ人が被害者となった事件です。事件の加害者たちは、いったんは法廷の場に立たされるのですが、お目こぼしを受けます。裁判所は、アフリカ系住民にたいする暴行・殺人には寛大なのです。  裁判所を取り仕切る判事は、目隠しをして天秤測りをもつ女神ではありません。判事は両目を見開いて対象者の外見を凝視し、剣を振り下ろすかどうかを判断するのです。  92年4月29日、ロドニー・キング事件の無罪判決が出た日、裁判所を囲む抗議集会は暴動へと発展します。暴動は5日間つづき、約3600件の火災、4500の店舗が略奪にあい、死者63名、負傷者2383名、逮捕者1万2000名を出す大暴動となりました。

ばかばかしい理由で行使される権力

 話を戻して、杉田官房副長官です。警察庁・警備公安警察の人間が人事権を握っているという事態は、非常に危険です。警察は人間の外見を見ています。彼らが下した選別の基準が、内閣の意向に反したからだという説は、半分は正しいが、半分は大間違いです。自分は政府の意向に沿った研究をしているから安心だと考えている人がいるとしたら、それは素人の考えです。権力の行使というものは、そんなに合目的的なものではありません。権力とはもっとランダムで、理不尽で、ばかばかしい理由で行使されるのです。権力者にとって権力とは、なにかの目的を達成するための手段ではなくて、権力の行使それ自体が目的なのです。 <文/矢部史郎>
愛知県春日井市在住。その思考は、フェリックス・ガタリ、ジル・ドゥルーズ、アントニオ・ネグリ、パオロ・ヴィルノなど、フランス・イタリアの現代思想を基礎にしている。1990年代よりネオリベラリズム批判、管理社会批判を山の手緑らと行っている。ナショナリズムや男性中心主義への批判、大学問題なども論じている。ミニコミの編集・執筆などを経て,1990年代後半より、「現代思想」(青土社)、「文藝」(河出書房新社)などの思想誌・文芸誌などで執筆活動を行う。2006年には思想誌「VOL」(以文社)編集委員として同誌を立ち上げた。著書は無産大衆神髄(山の手緑との共著 河出書房新社、2001年)、愛と暴力の現代思想(山の手緑との共著 青土社、2006年)、原子力都市(以文社、2010年)、3・12の思想(以文社、2012年3月)など。
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