金正男暗殺当日、二人の若い女性に何があったのか? 暗殺事件を描いた『わたしは金正男を殺していない』 監督インタビュー

国家に翻弄される個人を描く

※以下のインタビューでは、物語の結末を含みます。 ――国家間の政治的な背景とは別に、刑務所の2年間で培ったシティさんとドアンさんの友情や彼女たちの家族の物語など個人的な背景が描かれていました。「国家の事情により犠牲になる個人」という構図が映し出されていたと思いますが、このような演出は最初から想定していたのでしょうか。 ライアン:最初はそこまでは考えてはいませんでした。編集作業の中でその構図が浮き彫りになって来たという感じです。  どちらかというと、政治的な背景等を描いたドラマよりも人間的なドラマに惹かれるので、最初から北朝鮮の内情や国家間の取引ではなく、この女性たちに焦点を当てて作品を作ろうと思っていました。  ところが、制作の過程で、この映画を西側の人たち、つまりアメリカをはじめとした資本主義の国の人たちに見てもらったところ、地政学的な文脈が分からない人が多かったんですね。「金政権って何?前の世代はどうだったの?」というような質問が出ました。
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 そこで、ある程度客観的に北朝鮮の歴史や政治事情がわかるようなシーンも盛り込みました。劇中にはワシントン・ポスト北京支局長アンナ・ファイフィールドさんのインタビューもありますが、実は編集の最終段階で入れたものだったんです。  僕自身は映画作家としてヒューマンに寄っていくタイプですが、それを実現するには、政治的な背景を描かざるを得ませんでした。国家と個人というマクロとミクロのバランス、政治的なものと人間的なもののバランスをどのように取るかについてはかなり考えましたね。 ――インドネシア政府の働きかけで2019年3月11日にマレーシアはシティさんに対する起訴を取り下げ、それによってシティさんだけが釈放され帰国します。結局、ドアンさんもベトナム政府の働きかけにより、同年4月1日に検察側が起訴事実を殺人罪から傷害罪へ訴因変更し、刑期の短い傷害罪の判決がなされますが、その3週間、弁護団やドアンさんのご家族、そしてライアン監督はどのような気持ちで過ごしていたのでしょうか。 ライアン:あの3週間は本当に辛かったですね。2人とも無実だと信じていたからです。僕にとっても周りの人にとっても驚きでした。そして、なぜ1人だけが釈放されたのかという気持ちが駆け巡り、まさにカオス状態でしたね。  起訴が取り下げられたシティさんはその日のうちにインドネシアに帰国しましたが、ドアンさんの方は大きなショックを受けていました。弁護団も家族も僕も、ドアンさんだけが処罰され、死刑になるのではないかという空気がありました。彼女だけがこの世を去るという最悪の結末を覚悟しなければならないと。  2人とも有罪にされると思っていたので、当初の予定では、判決が出てから刑に処されるまでの短い期間で映画を公開して世界中に彼女たちの無実を訴えたいと思っていたんです。ところが、1人だけが釈放されて、僕たちはとてもグレーな立場に立たされてしまった。  幸いなことに、ドアンさんには傷害罪の判決が下りましたが、少なくとも彼女の命は助かりました。今振り返ると、自由になった彼女たちに取材できたことが何よりも大切なことだったと感じます。

ドキュメンタリー作家の役割

――聖職者の性的虐待や殺人疑惑を描いたNetflixのドキュメンタリー『キーパーズ』もそうでしたが、ライアン監督は司法による公正の実現から外れてしまった事件の真実を突き留めようとしています。そのパワーはどこから来るのでしょうか? ライアン:それは僕の仕事の好きな部分ですね。最初から目指していたわけではありませんでしたが、1作撮るごとに不正義への怒りが募っていったんです。  ドキュメンタリー作家は明かされていない事実に遭遇することが多いのですが、それを世に公開して正義を問うのはドキュメンタリー作家の責任だと思います。ドキュメンタリーの作家であるからこそ真実を明るみにすることができるのであれば、それをすべきだし、政府や権力者など本来不正義を是正すべき人がそれをしていないのであれば、僕らは彼らに代わってチェックやバランスをとる機能を果たすことができると思っています。
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 先程も述べましたが、もし彼女たちに有罪判決が下されていたならば、「無実の女性2人が死刑に処せられた」と国際的に物議をかもしたいと思っていました。ドキュメンタリー作家は権力や体制にいる側の人間が見落としてしまう事実を発見したり、チェックしたりすることができるんです。そして、そのことを真剣に受けとめていますね。 ――この作品を通じて観客の皆さんに伝えたいメッセージをお聞かせください。 ライアン:真実は見た目ほどシンプルなわけではないということです。僕もこの事件のことを知った時には笑ってしまいました。「動画制作をしていた2人の若い女性が暗殺者なんてあるのか」と思って、一度は日常生活に戻って行ったんです。ところが、その後事件を追い続けたところ、様々な事実が明るみになりました。  「真実は小説よりも奇なり」と言いますが、事件に関わっている人たちのことをしっかりと見つめて、そしてその声に耳を傾けなければならないということを知って欲しいですね。 <取材・文/熊野雅恵>
くまのまさえ ライター、クリエイターズサポート行政書士法務事務所・代表行政書士。早稲田大学法学部卒業。行政書士としてクリエイターや起業家のサポートをする傍ら、自主映画の宣伝や書籍の企画にも関わる。
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