2015年、在りし日のエディ (Photo by Daniel Knighton/Getty Images)
インドネシアの血を引いていたエディ・ヴァン・ヘイレン
エディ・ヴァン・ヘイレンが亡くなった。
ギター奏法の革命児だったエディは、長らく舌がんのために闘病生活を行っていたとのこと。ご冥福をお祈りしたい。
さて、そのエディ・ヴァン・ヘイレンが、インドネシアの血筋を引くハーフだったということは、あまり知られていないようだ。
私自身も、そのエディのバンドのヴァン・ヘイレンが絶頂期だった80年代に聞いた覚えがあるのだが、すっかり忘れてしまっていた。若かったので、そういう音楽以外の話は煩わしかったのかもしれない。ましてや、ヴァン・ヘイレンは、そういう個人の内省や過去の経験とは無縁のハードロックをやっていたからなおさらだ。
エディ・ヴァン・ヘイレンは1955年にオランダで生まれている。
父のヤン・ヴァン・ヘイレンは元々はアムステルダムのジャズミュージシャンで、クラリネットとサックスの奏者だった。仕事ではラジオのBGMやサーカスのためのオーケストラなどで、残念ながら当時そんなに恵まれた音楽経歴があるというわけではなさそうだ。イギリス空軍の音楽隊にもいたそうだが、オランダ敗戦後のナチス占領時代には反ナチ活動で拘留された経験もあるそうで、そのためかナチスのための演奏の仕事もしていたとのこと。
ドイツからオランダが解放されてからは仕事を求めて、当時独立紛争が始まったばかりのインドネシアに渡る。そこで出会ったのが、インドネシア人のユージニア、後のエディとアレックスのヴァン・ヘイレン兄弟の母となる人だ。
ユージニアとは亜熱帯に白い花を咲かせる果樹のこと。写真をみると、たしかにアジア系の顔立ちで、どちらかというインドネシアの華人の血筋とおぼしき美貌である。彼女自身もハーフだったとのことだが、詳しい血筋については本人もわからないらしい。
インドネシア独立戦争は日本が敗戦した直後から始まり、イギリス軍も巻き込んで全土で80万人以上の犠牲者が出た。そこにはもちろん植民地だったインドネシアと宗主国だったオランダの民間人双方も傷つけあった。そのためにオランダ人であるヤンは、インドネシア人からの敵意にさらされるようになり、インドネシア独立後の1953年オランダに戻ることを決めた。オランダとインドネシアなどの旧植民地を結ぶ定期客船のデッキには、ヤンとともにユージニアの姿があった。その年、エディの兄でヴァン・ヘイレンのドラマーとなるアレックスがオランダで生まれ、その翌々年にはエディが誕生する。
エディ・ヴァン・ヘイレンの経歴を見ると、エディが12歳になった時に一家はアメリカのカリフォルニアに移住したとある。理由は厳しい気候と環境と記載されていることも多く、実際の事情には触れずにソフトに書いているものばかりだ。
ヴァン・ヘイレンのボーカルで、自身もロシアのユダヤ系移民の子孫であるディビッド・リー・ロスは、本人から聞いたのであろうオランダでの一家の生活について教えてくれる。曰く、当時のオランダでアジア系と結婚するというのは、アメリカでいうなら南部で黒人と結婚するのと同じくらいの偏見をうけることであった、と。
ユージニアに対するオランダでの差別は苛烈だった。レストランには入れず、街中でツバを吐きかけられたりすることもあったそうだ。エディを抱いた子供連れの彼女が買った品物は投げてよこされた。エディ自身も、アジア系との混血ということで子供たちにいじめられていたそうだ。
そのため一家はアメリカのカルフォルニアに家族で移住を決意したのである。