長島昭久議員は更に次のようなツイートをしています。
“日本学術会議問題は、今週にも行われる衆院内閣委員会での政府説明で決着がつくと思うが、結局、官邸としては、過去の慣例を踏襲せず、政府の一機関に属する公務員として相応しいか否かで任命の判断をした迄で、政府に認められないと学問の自由が侵害されるとの批判は、自由とは真逆の発想ではないか。”〈出典:
長島昭久衆院議員のTwitter〉
看過しがたいのは、「
政府に認められないと学問の自由が侵害されるとの批判は、自由とは真逆の発想ではないか」という発言です。どうやら長島議員は日本国憲法第23条「学問の自由は、これを保障する。」の「保障」は、政府ではなく国民が自助でやるべきことと認識されているようです。
言うまでもないことですが、第99条に規定されている通り、
日本国憲法の名宛人は日本政府にほかなりません。したがって
学問の自由を保障する義務を負うのは国民ではなく日本政府です。こんな
中等教育レベルのことも理解していない人間が与党議員として議員歳費を貰い続けていることと、人類の歴史に偉大な足跡を残した150名の日本の科学者に終身年金を支給することのどちらが国家国民のためになるのかは明白ではないでしょうか。
かつて自民党の
杉田水脈衆院議員が科研費をめぐって起こした騒動と同様の事態が、今度は末端の議員ではなく、あろうことか
政権中枢によって惹き起こされたのが、今回の日本学術会議会員任命拒否問題だったと言えるかも知れません。
その際にも述べたことですが、国民の税金が投入されているからこそ学問の自由が政府によって充分に保障される必要があります。たとえば、タバコ会社の資金提供でタバコの人体への害に関する研究が自由にできるでしょうか。あるいはゲイツ財団から研究助成を受けてビル・ゲイツの絶対に知られたくない過去(仮にそんなものがあるとして)を赤裸々に暴き出すような伝記研究ができるでしょうか。
「税金が投入されているのだから、時の政権の意向に従え」という発想は学問の自由を根本から毀損し、ひいては亡国への道であることを先の敗戦から学び、その反省のもとに設立されたのがまさに日本学術会議でした。同会議が発足した昭和24年1月22日付の声明「
日本学術会議の発足にあたって科学者としての決意表明」は以下のように始まります。
”
われわれは、ここに人文科学および自然科学のあらゆる分野にわたる全国の科学者のうちから選ばれた会員をもって組織する日本学術会議の成立を公表することができるのをよろこぶ。そしてこの機会に、われわれは、これまでわが国の科学者がとりきたった態度について強く反省し、今後は、科学が文化国家ないし平和国家の基礎であるという確信の下に、わが国の平和的復興と人類の福祉増進のために貢献せんことを誓うものである。”
このとき科学者たちの胸中にあった「反省」と「確信」を、カビ臭い理想主義だと一笑に付すか、あるいは自分たちの歴史の一部として改めて引き受けていくか、いまその岐路に立たされているように思えてなりません。
〈文・GEISTE)Twitter ID:
@j_geiste