「当事者」になると、相手をそう簡単に批判することはできない
インターネット配信でのニュースを見ているときに、ひどい言葉で誰かを批難している言葉に出会うことがあります。そのとき、突然後頭部をボカンと殴られたような気持ちになり、驚くとともに心身が痛み、言葉にならない悲鳴を上げていることに気づきます。やり場のない悲しみは、さらに心をかき乱し続けます。
いろいろなことに当てはまることですが、「当事者」になると、相手をそう簡単に批判することはできません。なぜなら、いろんな葛藤や矛盾を抱えながら当事者がどんな状況でどんな思いで頑張っているか、その現場を身に染みて知ることで、相手の行動や言葉も共感しながら受け止めることができるからです。
自分は医療従事者ですから、医療の現場の大変さはよくわかっています。だから、そう簡単に表面的なことを切り取って医療現場の批判はできません。表に出てこない、いろいろな背景がそこにあるはずだろう……と、結果だけではなく複雑なプロセスの全体性をこそ、想像し共感するからです。
たとえば、自分が本を書く書き手にもまわったからこそ、本を書く側の大変さも身に染みてわかります。文章を紡ぐ立場の大変さがわかるからこそ、そう簡単に自分以外の誰かの本や文章の内容を批判できません。
たとえば、自分で料理をして、掃除をして、子供の相手をして……と、一日中自分が家事に従事すると、普段子どもをみている配偶者や、家庭を守っている方の大変さが身に染みてわかります。そうした共感する力は、少しでも当事者の気持ちになってみないと分かりません。
サービス業でも家事でも、芸能界でも医療界でも、すべてを当事者視点で見てみると、そう安易にクレームを言ったり、非難の言葉を投げかけたりすることはできません。相手の苦しみに共感しながら言葉を紡ぐことは、言葉を発する側にもそれなりのトレーニングを必要とします。
当事者、生産者、発信者など、相手の立場に回って考えてみる習慣を失ってしまうと、相手の立場を理解することは難しいです。現代は、いろいろな物事が複雑化し分断化され専門化されすぎたせいで、こうしたズレや断層があらゆる場所で起きてしまっているのかもしれません。
健康な身心を保つために努力する人からは、悪口は出てこない
ちなみに、自分は能の稽古をしています。稽古や習い事では、必ず「先生」という存在が自分の中に生まれます。
わたしたちは、教えを受ける立場にいないと人に頭を下げることがなくなり、知らないうちに傲慢になります。
だから、どんな人でも習い事やお稽古をすることで積極的に「初心者」となり、先生という存在を持つことは大事なことだと思っています。「自分はまだまだ未熟であり、何もわかっていない発展途上の存在だ」ということを、頭だけではなく身を持って知るためにも。
未知のことにチャレンジし、初心者・初学者の立場となることで、人はおのずから謙虚になります。
インターネット上で悪口を書き、罵詈雑言で非難を続ける人の文体や言葉のスタイルを注意して研究してみると、いかにして相手の急所を一撃でつくか、そうしたことに長けていることに感心すらします。
「自分が言われたくない」ことを、先に相手に言うことで防御しているのかもしれません。いじめられたくない人が、いじめる側にまわって場を支配するように。なぜここまで相手の急所を突く言葉を習得しているのかと冷静に考えてみると、そうした否定的な言葉を別の状況で自分自身が言われてしまったことがあるのではないでしょうか。
言葉はそうした形で悪い循環の環をつくりながら、攻撃性を増していきます。暴力行為と同じで、悪口を言い続けている人は、個人的な正義感の遂行とともにスカッとした爽快な気になっていて、病みつきになっているのかもしれません。
人をジャッジし裁く行為は、自分が相手よりも心理的に上の立場に立つことができるので、支配欲も満足させることになります。
つまり、悪口という行為が下手な自己治療になってしまっていることが問題なのです。悪口に快感や快楽を感じているとしたら、それは間違った自己治療の行為として、自分ではもう止めることができません。
ただ、健康な身心を保つために日々努力している人の口からは、悪口は出てこないはずです。なぜなら、そうした否定的な言葉が自分自身の身心に悪い影響しか与えないことを体感として知っているでしょうし、そもそもそうした言葉自体が沸きにくい心の状態になっていることもあるかもしれません。