第二次安倍政権の7年半の間で、憲法の効力は奪われ続けてきた。強引な憲法解釈の変更により集団的自衛権を容認したことは、憲法9条の死文化を加速させた。秘密保護法や共謀罪法の制定は、市民の基本的人権の保障を宙吊りにさせるものだ。行政監視機関としての議会を開かせたくないため、憲法53条に公然と背いた。そして公文書の破棄や改ざんによって、行政が守るべき手続きのルールは崩壊した。
2015年、沖縄防衛局は、沖縄県が辺野古埋め立て承認の取り消しを行ったことに対して、行政不服審査法に基づく不服申し立てを行い、承認された。2018年、沖縄県の辺野古埋め立て承認撤回についても同様に、不服申し立てが行われて承認された。
行政不服審査法は、国家権力に対して市民の人権を守るために制定されたもので、国家が地方自治を踏みにじるために制定されたものではない。国家と地方自治体が対立した際、国家が地方自治体に対して不服申し立てを行うようなことが許されてしまえば、地方自治は危機にさらされてしまう。
ところが安倍政権は、立法趣旨を尊重するということを知らない。権力の自己拘束という理念も理解しない。それまでの不文律的な正当性をすべて破壊し、力をほしいままに行使してきた。
しかし権力をほしいままにしてきた安倍政権も、憲法そのものに手を付けることはできなかった。それはそれだけ野党と市民が力強く抵抗したからでもあるが、一方でそれは安倍政権の「弱さ」のせいでもある。
安倍政権は絶大な権力を持っている。内閣法制局からNHKまで、掟破りの人事権を行使することで、行政・立法・司法・メディアの四権をコントロール下に置いている。しかし、そのことで安倍晋三が行ったことは、いわゆる通俗的「独裁者」のイメージとはかけ離れている。極端にいえば、秘密保護法や共謀罪を用いて反対派をどんどんと投獄していくような恐怖政治ではない。その代わりに彼が行ったことは、自分やその友達への、いわば「チンケ」な利益誘導なのである。
バロック悲劇の君主のごとく、安倍は決断能力を欠いた権力者だ。(参考:
新型コロナウイルスの感染拡大に対して、強大な権力を持つ筈の安倍政権がこれほどまでに無能である理由)
たとえば災害対応は、リーダーシップが必要とされる仕事であり、ある意味では首相の力の見せどころでもある。あれだけ「緊急事態」を煽っている首相ならばなおさらだ。
だが、安倍晋三は、災害となると決まって私邸に引きこもり、首相公邸に詰めることすらしていなかった。2018年の「赤坂自民亭」や、2019年の台風襲来時に内閣改造を優先させたことなど、国の危機に党内事情を優先させたこともあった。彼は「緊急事態」において決断を行うことを嫌うのである。
このようなことを意識しながら、改めて安倍政権が行った憲法や他の規範を無視するかのような振舞い――そうすることによって、憲法が実質的に効力を失ってしまうような状態に置こうとする振舞いについて考えてみると、安倍政権とは、新たな規範を打ち立てるのではなく、規範を停止させることそのものが目的だったこという可能性に至る。すなわち、あらゆる規範の効力が宙吊りになった「例外状態」をつくりだすことである。(参考:
新型コロナウイルスによる「緊急事態」の宣言。起こりうる「人権の停止」に抗うために。)
「例外状態」は、権力者に対して決断することを義務付けない。むしろそれは権力者を規範から解放し、無為でいることを許す。つまり「君臨すれども統治せず」。権力者に代わって政治を行うのは、「控えの間」にいる廷臣たちだ。つまり、ここにおいて権力者ではなく「権力への道」が決定的に重要になるのである。
一億総活躍、GDP600兆円、クールジャパン、アベノマスク……、スローガン止まりに終わった政策からいっそのことスローガン止まりであってくれたほうがまだましだったような政策まで、安倍政権がこれまで行ってきた思い付き政策は、内閣官房にいる経産省出身の官僚たちによって起案されたものであることが知られている。無為な権力者と規範が停止された「例外状態」があって、彼らがやりたい放題できるような環境がつくられたのだ。
安倍政権の全体性が把握しがたいのは、おそらくこうした理由によるものだろう。たとえ安倍晋三が恐ろしく右派的な国家像の持ち主だとしても、彼が無為な権力者である限り、その一貫性は政治には発揮されない。たとえば政権獲得以来最重要課題のひとつにあげていた「拉致問題」については、特に誰かに邪魔された形跡はないにも関わらず、まったく何もしなかったのである。
政権の後半、憲法の改正に積極的であるように見えなかったのも説明がつく。法の効力さえ停止してしまえば、法を破棄する必要はない。2015年の安全保障法によって、9条は実質的に死んだので、逆に安倍政権は憲法改正事由を失ったと言われてきた。ナチス政権もヴァイマル憲法を破棄せず、全権委任法によってその効力を停止させた。
経済政策についても、規制緩和や民営化といった新自由主義政策を掲げながら、控えの間に集まる各業界・団体の利権者にも金を流す必要があるため、一貫性なく国家が経済に介入していく傾向が生じる。こうした税金による利権分配を「左派的政策」と評価する人もいる。しかしこれは、格差是正や公正さを担保するために経済に介入する左派的なヴィジョンとは似て非なるものなのだ。