©2020「人数の町」製作委員会
9月4日より『人数の町』が公開されている。本作は押しも押されもせぬ人気俳優・中村倫也の主演作であり、“ディストピア”を描いたミステリーとして格別な面白さのある映画であった。その魅力を紹介していこう。
©2020「人数の町」製作委員会
借金取りに追われていた青年(中村倫也)は、黄色いツナギを着たヒゲ面の男(山中聡)に助けられ、ある“町”に招待される。その町の住人は簡単な労働と引き換えに衣食住が保証されていた。この奇妙な町を戸惑いつつ受け入れるも、不信感も拭えずにいた青年は、ある日新しい住人の女性(石橋静河)と出会う。彼女は行方不明になった妹を探しにやって来たと言うのだが……。
「うだつのあがらない青年が奇妙な町に連れて来られる」という導入から、その場所の異常性をじわじわと、しかしはっきりと見せていくというのが基本的なプロットだ。とは言え、町は監獄というわけではなく、住人には行動の自由が与えられており、“紙”の受け渡しで同意を得ることで住人同士の性行為も認められていて、時おりバスに乗っての外出さえも許可されている。町の見た目は無機質ではあるが、清潔さも保たれているように見える。その暮らしを大いに楽しんでいる住人もいる。
そうにも関わらず(だからこそ)、その場所はやはり不気味でグロテスクなものに感じられる。その理由の筆頭は、住人が管理されたコミュニティに耽溺しているという、ディストピアの世界観が築かれているからだろう。
ディストピアはユートピア(理想郷)の対義語であり、SF作品では頻出する世界観だ。ディストピアは往々にして「表面上は効率的・理想的な社会とされている」が、「本質的には目的のために何かが犠牲にされていたり欺瞞に満ちている」というもの。「こうすれば幸せになれる」といった単一的な思想や価値観が強要されていたり、極端な格差ができていたり、多数のために少数が犠牲になることも多い。
ディストピアの作品群は、過度の管理社会を描いた映画『未来世紀ブラジル』(1985)、感情を禁じられた世界を描いた映画『リベリオン』(2002)など、枚挙にいとまがない。青年が未知の場所に連れてこられる冒頭のシチュエーションから、マンガの『自殺島』を思い出す人もいるだろう。
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『人数の町』がそうしたディストピアとは一線を画すのは、住人たちが“平等”であること。住民たちは名前を名乗らずお互いに“フェロー”と呼び合い、全員が同じ簡単な労働を行っている。さらに家族を持つことは不平等の始まりであるとされ、個人での生活を強いられている。格差もなければ、何かを奪い合ったり争うこともない。
しかし、平等、つまりみんなが“同じ”にされてしまうことを突き詰めれば、何になるのか?それは人間としてではなく、“人数”として扱われる、ということではないか?という答えに行き着くというのが、この『人数の町』のさらにグロテスクなことだ。それは、劇中で表示される“数字”を見れば、より現実に根ざした恐怖を覚えるものだった。
劇中では、たびたび暗転し、画面中央のテロップで「倒産 8235件/年」や「人工中絶 16万8015件/年」という具体的な数字が表示される。これらのおびただしい数字は現実の日本の状況に符号しており、かつ劇中の物語にリンクしている。はっきりと、現代社会への風刺が込められた作品でもあるのだ。
例えば、住民たちが、誰に投票するのかもわからないまま投票所に連れてこられた時には「平均投票率 53.8%」「投票したことがない人 706万人」とも表示されたりもする。
有無を言わさず投票させられる住民たちは、ここでは単なる「数」となっている。平等に扱われている彼ら彼女らは、もはや人間ではなく、穴埋めのための人数と化している、ということでもある。
©2020「人数の町」製作委員会
なお、住民がやらされている労働には、大人数で物事に対し機械的にとにかく“絶賛”をしたり、はたまた“ディスり”をする、ステマ(ステルスマーケティング)もある。これも現実にある、個人の意思や主張などを無視した、「人数に頼ったもの」の代表と言えるだろう。
監督・脚本を務めた荒木伸二は、こうも語っている。「人間が人数に変わる時、私は恐怖を覚えます。小さい頃から多数決が苦手で、人が人の頭数を数える行為に何故かゾッとしました。怖いものがあれば映画が撮れる。ある著名な映画監督がそう言うのを聞いて私は人数に対する恐怖を紐解くところから映画創りを始めました」と。
この言葉通り、この『人数の町』では「人間が人数に変わる」恐ろしさを描いている。その恐怖の片鱗は、確かに多数決という日常的な行為にも表れているのかもしれない。そして、ディストピアは現実の社会に根ざした、その先にあり得る“最悪”といえる例を極端な世界観で見せたものだ。劇中の町で起こる出来事の全てが絵空事ではなく、リアルな恐怖としても映るのは、そのためだろう。