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国会閉会中でもあり、また、与党政局に動きがない(ように見える)こともあり、主要新聞のみならず普段は与党政局でさえ取り上げないテレビメディアまでもが、立憲民主党と国民民主党の合流協議のあれこれを報じ続けている。愚にもつかない野党政局を書くほかないほどメディアも暇だったのだろう。そのおかげで、またぞろ「
憲法改正」への取り組みが旧民主党勢力離合集散の一つの軸になっている……いや、国民民主党の玉木雄一郎氏が立憲民主への合流を拒否する理由として「憲法改正」を挙げている様子が明るみになった*。
〈*月刊日本向けに本稿を執筆していた7月末から8月初旬にかけて玉木氏は「憲法改正」および後述するように「消費税減税」を「立憲側に呑んでもらいたい条件」として挙げていた。しかし8月19日に行われた、国民民主党両院議員総会をうけての記者会見で玉木氏は、不思議なことに「改革中道という言葉が綱領にない」ことを、条件として新たに提示している。不思議なこともあるものだが、ここは、「
玉木氏は交渉と交渉ゴッコの区別がつかないタイプのお気楽な政治家である」ことを見抜けなかった己が不明を恥じるしかない〉
なるほど確かに、玉木氏が掲げている「政策合意の条件」は、憲法改正だけではない。玉木氏は消費税減税についても「合意条件」として掲げている。しかしこれは方便だ。「玉木新党」への参加が有力視されている議員たちの顔ぶれを見ればいい。その
ほとんどが、旧民主党政権末期の野田政権下で誰よりも強く消費増税を訴えた人たちが占めている。民主党政権下で増税路線に反対した造反議員たちの懲罰を誰よりも強く主張した議員も玉木新党への参加を表明している。増税派どころか減税を主張する人々を懲罰にかけきた議員で構成される陣容で消費減税をやるなど一切の説得力はない。おそらく
消費税減税を口の端にのせるのは、交渉のためにするブラフの一種なのだろう。
愚劣であり幼稚としかいいようがない。
玉木氏の交渉手腕の稚拙さや愚劣さはさておき、彼が交渉のために口の端にのせた、
「憲法改正」と「消費税」こそが、旧民主党勢力のみならず広い意味での「野党勢力」の離合集散と栄枯盛衰の鍵を握ってきたことは、平成30年の歴史が指し示す、歴史的事実ではある。とりわけ、「憲法改正とどう向き合うか」は、消費税よりも長い期間かつ広範囲にわたり、広義の野党勢力をズタズタに分断してきたのは事実だ。
いや、より厳密にいえば、過去30年の歴史は、「憲法改正を真正面から議論すべきだ」と主張して誕生する「リアリズムを標榜する第三極の新党」が、次から次へと誕生し、野党としても第三極としても機能しえず、例外なく、
消滅するか自民党に吸収されるかの末路を辿っていることを物語っている。この法則に例外は一切ない。この法則が興味深いのは、「リベラルサイドから改憲を訴える政党」のみならず「自民党よりも極端に右」な立ち位置でスタートした第三極政党でさえ、同じ末路を辿っていることだ。石原慎太郎の新党や中野正志の新党など、もはやその名前すら忘れ去られてしまっているではないか。
「
憲法改正を標榜する新党には消滅の末路がまっている」という法則は、
「中道無党派有権者狙いのリベラル改憲新党」のみならず「自民党さえ恥ずかしがるほどの極右な新党」をも例外なく飲み込み、死屍累々の山を築き上げてきた。
考えてみれば当然ではある。土台、「憲法改正に前向きな新党」なる軸足は、
マーケティング的に無理がありすぎるのだ。
確かに憲法改正を望む有権者は一定の割合で存在する。憲法改正のためならば不惜身命に候補者を応援しようとする市民各位も相当数おられよう。その意味ではマーケットは存在している。だが、
そのマーケットを自民党以外の政党が侵食するのは、不可能に近い。
冷静に考えてみればいい。「改憲マーケット」に存在する「改憲を熱望する有権者」が、改憲に真剣であればあるほど、
有権者は「改憲の現実味が高い投票先」を選好するはずではないか。「憲法改正には3分の2議席が必要」であることは子供でも知っている。だとすると、改憲を志向する有権者の選好が「3分の2議席獲得の可能性が高い方」に偏るのは当然だ。「改憲したい。でも弱小政党を応援したい」などという「
満腹になりたいから、晩御飯は綿菓子にする」的な珍妙な投票行動を採用する有権者はそう多くはいまい。
つまり「改憲マーケット」には、その性質上、極めて強烈なバンドワゴン効果*が抜き難く存在しているということになる。
思想の左右関係なく、掲げる改憲内容を問わず、改憲を標榜する新党や第三極が例外なく埋没し消滅の憂き目にあい続けてきたのは、このバンドワゴン効果の結果、改憲マーケットの得票が、
改憲するに必要な議席を占有する蓋然性が最も高い政党=自民党に集中するからに他ならない。
「改憲を標榜する新党や第三極は消滅する」法則は、単に経験則として存在するのではなく、ある種、論理的必然として存在しているのだ。いまごろになってまたぞろ、「改憲議論に前向きな政党」などを志向することは、近過去の歴史さえ直視しない夢見がちな幻想にすぎない。およそ
「リアリズム」とは呼べぬ「お花畑」な遊戯だと断ずるしかあるまい。
〈*ある選択肢を多数派が選んでいるということが、その選択肢を選ぶ者を更に増大させる効果のこと。「勝ち馬に乗る」に近い〉