―― 新型コロナウイルスはいずれどこかのタイミングで終息すると思います。しかし、SNSやテクノロジーを通じた全体主義が止まる姿は想像もつきません。どうすればデジタル全体主義を克服できるでしょうか。
中島:20世紀型の全体主義であれ21世紀型の全体主義であれ、全体主義の社会では人々は単なる「
群れ」として扱われます。わたしたち一人ひとりがどのような人間であるかは無視され、「その人」としては扱われないのです。パーソナルなものを避けているのです。
そうだとすれば、全体主義を克服するには、
デモスである民衆一人ひとりに開かれたデモクラシーが必要だということになります。これは
字義通りの「パン・デミック」です。「パン・デミック」という言葉は「全(パン)・民衆(デモス)」を意味しています。これこそわたしたちが追求すべきものだと思います。
その際、ナチス・ドイツからアメリカに亡命したユダヤ人哲学者
ハンナ・アーレントの議論が参考になります。ずいぶん前になりますが、ハンナ・アーレントの研究会に参加したとき、ある研究者から「アーレントの思想のポイントは
Don’t feel at homeだ」と言われたことがあります。Don’t feel at homeとは「家にいるようにくつろいではならない」という意味です。つまり、
快適さに甘えて思考停止してはならないということです。
これは非常に重要な視点です。テクノロジーが進歩し、デジタル化が進んだことで、わたしたちの暮らしがある面で快適になったことは間違いありません。ハラリの描く未来は、まさにこの快適さに貫かれています。しかしその結果、わたしたちの生活はアルゴリズムによって完全にコントロールされることを許すのです。
こうした事態を打開しようと思えば、快適さから距離をとって、スペースをあけるしかありません。このスペースこそがデジタル全体主義の及ばない場所であり、ここにこそ人間の居場所があります。そのためには、対抗アルゴリズムのような発想を、テクノロジーに関わる人々に持ってもらう必要がありますし、それが切に望まれているのだと思います。こうしたスペースをあけなければ、パン・デミックなデモクラシーは成り立たないと思います。
―― ガブリエルさんをテレビに出て資本主義について気の利いたコメントを述べるスタイリッシュな哲学者と見ていた人は、この本で展開されている彼の全体主義批判に驚くと思います。
中島:ガブリエルさんは資本主義に対しても厳しい批判を行っていますが、その背景には
戦後ドイツの反全体主義という文脈があると思います。
たとえば、彼が『
なぜ世界は存在しないのか』(講談社)で言っている「世界」とは、すべてを包括する統一的な根拠のことです。そこでは強力な同一性が支配していて、すべてを全体化していきます。ガブリエルさんはこうした意味での「世界」を批判し、「世界は存在しない」と主張することで、全体主義への哲学的な批判を行っているのです。
―― ガブリエルさんをハイデガーの影響下にある哲学者と位置づける日本での評価が多いなか、『全体主義の克服』のなかで、彼がハイデガーを痛烈に批判しているのも驚きでした。
中島:ガブリエルさんもハイデガー哲学のもとでトレーニングを受けたと言っているので、影響がないわけではありません。しかし、その影響をどう乗り越えるかが課題なのです。
ハイデガーは、20世紀の哲学に大変な影響力を持ち、ナチスとの関係も深く、日本の哲学者にも影響を与えました。そのハイデガーが提起したのが「死」の問題です。ハイデガーは、正しく「死」に関心を持てば、本来的に生きることができると主張しました。ハイデガーの哲学は、第一次世界大戦という世界戦争が展開した20世紀において、死に直面した人々を惹きつけたのです。
20世紀に全体主義が台頭したのは、第一次世界大戦と、同時期に流行したいわゆる「スペイン風邪」が大きなきっかけでした。当時は現在と同じくらいに経済のグローバル化が進んでおり、その負の影響も広がっていました。国際協調が崩れ、世界戦争に突入し、文明としてのヨーロッパの意義が根底から損なわれます。そのようなときに、「根拠」を与えてくれるように見えたハイデガーの哲学に、人々が熱狂したのは無理もありません。それはヨーロッパだけではなく、日本のように、ヨーロッパ近代を反復しようとしたところにも広がりました。
しかしそれでは、全体主義に取り込まれることに抵抗できなかったのです。「一」なるものに全体化され、意味づけられるままにならないような哲学をどう打ち立てるのか。それがガブリエルさんの新実在論や新実存主義のひとつの目論見だったのです。わたし自身も、「一なる全体」に抗する哲学を、東アジアから考えようとしてきました。
―― 中島さんもガブリエルさんも、哲学を従来とは違った役割をもたせようとしているのですね。
中島:そうです。現在の状況も100年前をなぞるように、非常に不安定で危機的なものになってきています。しかし、100年前の轍を踏むわけにはいきません。当時の哲学とは違った貢献を、現代の哲学者はしていかなければならないと思っています。そのひとつの試みが、今回の新書『全体主義の克服』なのです。
<取材・構成/中村友哉>
「月刊日本」副編集長。1986年、福岡県生まれ。早稲田大学卒。学生時代から『月刊日本』編集部で働き、2015年より副編集長