観光客の無関心なまなざしとGo To トラベル<史的ルッキズム研究6>

感染拡大のリスクを抱えた「Go To トラベル」

旅行 この記事が掲載されるころにはもう始まっていますが、政府は「Go To トラベルキャンペーン」と題して、国内観光旅行の振興事業を行います。観光旅行の交通費などを補助するために、1兆3500億円の予算を組んでいます。  この施策には、当然多くの批判が向けられています。新型コロナウイルスの感染が終息していない状態で、国内の移動を奨励するのです。これまで感染を抑制してきた地域に大都市圏の人々が移動することで、市中感染が飛び火するのではないかと懸念されています。  このキャンペーンを主導するのは、経産省、国交省、国交省の外局である観光庁です。大戦後の日本政治は、一種の「開発独裁型政治」であったと言われるのですが、まさに開発主義の中心的省庁が、このキャンペーンを主導しています。  そして、この事業が生み出すだろう感染爆発の対策については、政府は予算を出さず、地方自治体まかせにしているのです。  地方の医療機関は感染者の増加に備えなくてはなりません。コロナウイルス発症者に備えて、入院患者のいくらかを自宅に戻して、病床を確保するのです。観光振興政策のために、地方の社会は文字通り身を切ることになります。観光客を遊ばせるために、高齢の患者を病院から追い出し、ひっそりと息を引き取るよう促すのです。  財政的にも人的にも脆弱な地方自治体は、このキャンペーンに反発しています。すでに青森県のむつ市は、キャンペーン期間中の観光施設閉鎖を決めています。むつ市にとって、観光収入はわずかで、負担ばかりがかかるのです。いくつかの地域はむつ市のような自衛策をとってキャンペーンに背を向けるでしょう。しかし観光収入に依存する地域は、警戒をしつつ観光客を迎えるでしょう。

地域のリスクに目をつむる観光

 この「Go To キャンペーン」政策では、観光の収奪的性格が最大限に発揮されることになります。観光客は目に映るものを楽しみ、目に映らないものを忘れます。  これまで連日議論されてきた感染問題をあっさりと忘れるなんてことが、はたしてできるでしょうか。観光ならそれができます。このかんに私たちが学んだこと、医療従事者が抱える困難や、既往症を持つ人々の不安や、エッセンシャルワーカーが負っているリスクについて、あっさりと忘れることができるでしょうか。観光ならそれが可能になるのです。  観光という産業は、風景を眺め楽しむことと、人々の生活を顧みないこととが、一体となっています。目に映るものだけが存在し、目に映らないものは存在しない。目に映らないものを想像することはしない。目に見えないものに思いを巡らしても仕方がない。そうした規則によって構築された社会を、「スペクタクルの社会」と言います。
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シチュアシオニストが唱えた「スペクタクル社会」
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